皇居外苑・牛ヶ淵の桜

2007年4月1日 撮影
牛ヶ淵の桜
科学技術館から靖国神社へ向かう途中、日本武道館の入り口として有名な田安門(東京都千代田区北の丸公園)をくぐり抜けると、桜のトンネルが展開する。
桜のトンネルの西側には千鳥ヶ淵 (ちどりがふち) が、東側には牛ヶ淵 (うしがふち) がある。牛ヶ淵は千鳥ヶ淵ほどメジャーではないが、桜は美しい。

江戸城建立以前、この付近は田安台と呼ばれる田園地帯だったことから田安門の名が付いた。田安門の創建年代は明らかになっていないが、慶長12年(1607年)には既に存在しており、現在の門は1636年(寛永13年)に再建されたもの。現存する江戸城跡の門の中では最も古く、重要文化財に指定されている。
牛ヶ淵の桜の大きな写真大きな写真
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靖国通りの桜
こちらは靖国通りの桜並木。この付近には横断歩道はなく、歩道橋が1つあるのみである。歩道橋の各所には警官が配置されていたものの、たいへんな混雑であった。

交通アクセス

かつて田安門の近くには、一ツ橋家、清水家と共に徳川御三卿のひとつ、田安家の屋敷があった。1730年(享保15年)、8代将軍吉宗が、その実子、宗武に田安家を興させた。

御三卿は他の「家」と異なり、将軍家の「家族・身内」としての扱いを受けた。そのため、家督相続者がいなくなっても、明屋敷といって、後継当主が決まるまで家組織織(領地・屋敷地・家臣団)を幕府に没収されることはなかった。その一方、嫡子といえども、将軍家の意向で養子に出される習わしであった。
その中でも有名なのは、白河藩に養子に出された松平定信 (まつだいら さだのぶ) (1759~1829年)である。幼少の頃より聡明で、いずれは第10代将軍・家治の後を継ぐことになると目されていた人物である。

しかし、時の老中首座・田沼意次 (たぬま おきつぐ) (1719~1788年)を批判したことから、意次の怒りを買い、白河藩へ追い出されてしまう。定信は意次を大いに恨んだというが、意次失脚後の1787年(天明7年)、めでたく老中首座に就き、後に「寛政の改革」と呼ばれる苛烈な緊縮政策を進めることになる。寛政の改革のキーとなる重農主義は、白川藩で遭遇した天明の大飢饉の経験がベースになっているようだ。
しかし、その地位も長くは続かず、将軍・家斉と対立、1793年(寛政5年)に辞職してしまう。辞職後は白川藩に戻り、1829年(文政12年)に72歳で死去するまで、藩政に専念したという。

参考書籍

表紙 皇居散策ガイド
著者 中野正皓
出版社 三栄
サイズ ムックその他
発売日 2009年03月
価格 1,650円(税込)
ISBN 9784779605864
 

近隣の情報

(この項おわり)
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