科学技術館から靖国神社へ向かう途中、
日本武道館の入り口として有名な
田安門(東京都千代田区北の丸公園)をくぐり抜けると、
桜のトンネルが展開する。
桜のトンネルの西側には
千鳥ヶ淵
(ちどりがふち)が、東側には牛ヶ淵(うしがふち)がある。
牛ヶ淵は千鳥ヶ淵ほどメジャーではないが、桜は美しい。
江戸城建立以前、この付近は田安台と呼ばれる田園地帯だったことから
田安門の名が付いた。
田安門の創建年代は明らかになっていないが、慶長12(1607)年には既に存在しており、
現在の門は寛永13(1636)に再建されたもの。
現存する江戸城跡の門の中では最も古く、重要文化財に指定されている。
こちらは靖国通りの桜並木。
この付近には横断歩道はなく、歩道橋が1つあるのみである。
歩道橋の各所には警官が配置されていたものの、たいへんな混雑であった。
かつて田安門の近くには、一ツ橋家、清水家と共に徳川御三卿のひとつ、
田安家の屋敷があった。
享保15(1730)年、8代将軍吉宗が、その実子、宗武に田安家を興させた。
御三卿は他の「家」と異なり、将軍家の「家族・身内」としての扱いを受けた。
そのため、家督相続者がいなくなっても、明屋敷といって、
後継当主が決まるまで家組織織(領地・屋敷地・家臣団)を幕府に没収されることはなかった。
その一方、嫡子といえども、将軍家の意向で養子に出される習わしであった。
その中でも有名なのは、白河藩に養子に出された
松平定信(まつだいら・さだのぶ;1759〜1829)である。
幼少の頃より聡明で、いずれは第10代将軍・家治の後を継ぐことになると目されていた人物である。
しかし、時の老中首座・田沼意次(たぬま・おきつぐ;1719〜1788)を批判したことから、
意次の怒りを買い、白河藩へ追い出されてしまう。
定信は意次を大いに恨んだというが、意次失脚後の1787年、めでたく老中首座に就き、
後に「寛政の改革」と呼ばれる苛烈な緊縮政策を進めることになる。寛政の改革のキーとなる重農主義は、白川藩で遭遇した天明の大飢饉の経験がベースになっているようだ。
しかし、その地位も長くは続かず、将軍・家斉と対立、1793年に辞職してしまう。
辞職後は白川藩に戻り、1829年に72歳で死去するまで、藩政に専念したという。
| 2007年04月10日更新 | ||
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