グラバー園で三菱の歴史を学ぶ

2008年7月28日 撮影
グラバー住宅
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グラバースカイロード

グラバー園
グラバー園(長崎県長崎市南山手町8番1号)は、グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築した公園である。年中無休。季節によって入場時間が変動する。入場料は、大人600円、高校生300円、小中学生180円。

1863年(文久3年)に建築され、1961年(昭和36年)には国の重要文化財に指定された。
2013年(平成25年)9月には築150周年を祝い、トーマス・グラバーらの功績をたたえる顕彰式があった。
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斜行エレベーター-グラバースカイロード
2015年(平成27年)7月、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として、ユネスコの世界文化遺産に認定された。

2002年(平成14年)に完成したグラバースカイロードは、日本で初めて「道路」として位置づけられた“斜めに動くエレベーター”――正式名称は「(長崎市道相生町上田町2号線)」。
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路面電車の終点「石橋」近くの乗り口から、坂と階段のある道を進むと、斜行エレベーターの入口に至る。ここから2分ちょっとのエレベーターの旅を終えると、目前には青空と坂の街の風景が広がる。
運転時間は午前6時~午後11時30分まで。無料。
斜行エレベーター-グラバースカイロード
エレベーターは三菱電機製で、このようにユニークな階数表示になっている。
実際、2階から4階までも存在し、住民の生活用“道路”の役割を果たしている。
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垂直エレベーター-グラバースカイロード
斜行エレベーター5階を降り少し歩くと、垂直エレベーターがある。
これを登り切るとグラバー園が見えてくる。
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旧三菱第2ドッグハウス

旧三菱第2ドッグハウス-グラバー園
グラバースカイロード側からグラバー園に入園すると、すぐに旧三菱第2ドッグハウスが見えてくる。これは、1896年(明治29年)、三菱重工長崎造船所第2ドッグのそばに建てられた典型的な明治期の洋館である。
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当時は修理船の乗組員の休息・宿泊施設として利用されていたが、現在ではグラバー園の紹介ビデオを上映している。
館内にジュースやアイスの自動販売機があったので、まずは、ここで一休み。
長崎港-グラバー邸
旧三菱第2ドッグハウスの庭や2階ベランダから、長崎の街と港を一望することができる。
急峻な斜面にも建物が整然と並んでいる、坂の街・長崎ならではの風景だ。
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旧自由邸

旧自由邸-グラバー園
自由邸は、江戸時代末期、日本最初の西洋料理レストランとして草野丈吉がオープンした店である。当初は、伊良林若宮神社の前にあった自宅を改造した程度の簡素な店だった。
丈吉は出島のオランダ人のもとで修行し、オランダ公使デヴィットに認められ、めきめきと料理の腕をあげていったという。
1878年(明治11年)に西洋料理店「自由邸」として馬町に新規開業した。当時の自由邸のメニューには、ビフテキやカレーライス。コーヒー、スポンジケーキなどがあり、現在の価格で一人あたり1万3千円程度だったらしい。内外の貴賓、地元高官などの社交の場に利用されていたようだ。
西洋料理発祥の地-グラバー園
現在、2階は喫茶室となっており、レトロなメニューが並ぶ。
巨大なコーヒーメーカーからは独特の香りが漂ってくる。
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グラバー園
園内には坂や階段が多いが、高齢者や車椅子の方でも安心して見学できるよう、動く歩道が完備されている。
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グラバー住宅

グラバー住宅-グラバー園
グラバー住宅は1863年(文久3年)に建てられた、日本で最も古い木造西洋風建築だ。国の重要文化財に指定されている。正面玄関がなく、上から見ると四つ葉のクローバーのような形をしている。南国のバンガローのようだ。
トーマス・ブレーク・グラバー-グラバー園
所有者はイギリスの貿易商、トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover; 1838~1911)。
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スコットランドで生まれたグラバーは、1859年(安政5年)、上海のジャーディン・マセソン商会に入社。1861年(万延2年)に同社の長崎代理店としてグラバー商会を設立した。
当初は生糸や茶の輸出を行っていたが、討幕派を支援する武器商人として活躍していた。
1865年(元治2年)、日本で最初の蒸気機関車「アイアン・デューク号」を走らせた。
グラバー住宅-グラバー園
1870年(明治3年)にグラバー商会は倒産するが、自らが開発した高島炭鉱の経営者として日本にとどまった。高島炭坑を三菱商会に売却し、1885年(明治18年)以降は同社の顧問を務めた。
日本人女性、談川ツルと結婚し、長女・ハナ、長男・アルバートをもうけている。アルバートは、その後、日本に帰化し、倉場富三郎と名乗った。
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1870年(明治3年)、ノルウェー出身のアメリカ人技師、ウィリアム・コープランドが横浜にスプリング・バレー・ブルワリーを開設した。ここで日本で最初のビールが醸造された。ところが、1884年(明治17年)に経営難に陥り閉鎖してしまった。
グラバーは、三菱商会の岩崎彌太郎 (いわさき やたろう) を説得し、在留外国人や日本の財界人に出資を勧め、ジャパン・ブルワリーを設立した。
ジャパン・ブルワリーが目指したのは、本場ドイツのビールだった。そこで、すべての材料や設備をドイツから輸入し、醸造技師をも招聘した。そして1888年(明治21年)、ドイツ風のラガービール「キリンビール」が発売された。
キリンビール-グラバー園
このときの使われたラベルは、今ではお馴染みになった「麒麟」だが、この原型を提案したのもグラバーだった。グラバー住宅の一角にあるコマ犬の彫像が麒麟の原型と言われている。
ジャパン・ブルワリーは、その後、麒麟麦酒となり、現在はキリンホールディングス)となっている。もちろん、三菱グループの一員である。
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グラバー住宅-グラバー園
三菱商会の終身顧問となったグラバーは、妻ツルとともに東京に移住した。
鹿鳴館の名誉セクレタリーに推され、明治日本の国際交流に貢献した。また、かつてグラバーの尽力で密かに英国に留学した伊藤博文は、明治政府の要職に就いてからもグラバーの意見を求めていたという。
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1908年(明治41年)、グラバーは、明治維新の功績が認められ、外国人としては異例の勲二等旭日章を贈られた。その3年後、73才で他界した。

息子の倉場富三郎は、三菱に入社せず、長崎で遠洋漁業の仕事に従事する傍ら、魚市場から収集した水産動物の精巧な図譜「日本西部及び南部魚類図譜」(グラバー図譜)を編纂した。
1939年(昭和14年)に、グラバー住宅を三菱重工業に売却。同社は1957年(昭和32年)、グラバー住宅を長崎市に寄贈する。
同じ日英混血のワカを妻とするが、太平洋戦争当時はスパイ嫌疑をかけられ、終戦直後の1945年(昭和20年)8月26日に自殺した。国際墓地の父母のかたわらに葬られている。

交通アクセス

【鉄道】
  • 路面電車「大浦天主堂下」から徒歩3分でグラバー園入口第一ゲート
  • 路面電車終点「石橋」から徒歩2分でグラバースカイロード

グラバー別邸

グラバーは、長崎市沖の高島で炭鉱の開発・経営に関わったとき、炭鉱の近くに屋敷を建てた。これは「グラバー別邸」と呼ばれている。

第二次大戦後に取り壊されたが、明治日本の産業革命遺産の構成資産のひとつとして高島の北渓井坑 (ほっけいせいこう) 跡が含まれたことから、にわかに注目を集めている。
地元ではグラバー別邸を復元して観光の目玉にしようという動きがあるが、どんな建物だったのかが記録が残っていないという。

近隣の情報

参考サイト

(この項おわり)
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