復旧した熊本城天守閣

2022年8月15日 撮影
天守閣 - 熊本城
天守閣
熊本城(熊本県熊本市中央区本丸1-1)は、加藤清正が中世に築かれた城郭を取り込み、7年の歳月をかけて改築。1607年(慶長12年)に完成した平山城である。城跡は特別史跡に指定されており、国の重要文化財も多い。
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天守閣 - 熊本城
天守閣 2016年3月19日 撮影
2016年(平成28年)3月19日に撮影したもの。この約1ヶ月後に発生した熊本地震が発生――4月14日の前震はマグニチュード6.5、最大震度7。4月16日の本震は、マグニチュード7.3、最大震度7。
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天守閣復活 - 熊本城
天守閣復活 2022年8月15日 撮影
この地震により、熊本城は石垣が複数箇所で崩れ、重要文化財の長塀が長さ100メートルにわたって倒壊するなど、大きな被害を受けた。
熊本城は復興城主に寄付を募るなどして、2021年(令和3年)3月、天守閣の復旧に漕ぎ着けた。
石垣 - 熊本城
石垣
天守閣は、1960年(昭和35年)に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート建造物で、重要文化財ではないから早く復旧できた。しかし、重要文化財建造物は、元の部材を使って可能な限り使って元通りにしなければならない。
崩れた石垣は、すべて地震前の状態に積み直さなければならない。割れた石は貼り合わせ、再使用が無理な石は新しい石に差し替えるが、形は崩落した石と寸分違わぬように加工する。
現在は、写真のようにブルーシートの上にコンクリートで覆って、これ以上崩落が進まないように応急処置してある。
石垣 - 熊本城の大きな写真大きな写真
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数寄屋丸二階御広間 - 熊本城
数寄屋丸二階御広間
数寄屋丸二階御広間も崩れたままだ。

熊本地震では、全体の約1割にあたる約8200m2の石垣が崩落し、積み直しが必要な石は10万個を超えるという。
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復旧の様子 - 熊本城
復旧の様子
目立たぬ場所で重機が活動している。

天守閣復旧で積み直した石垣は、崩落部分の1割にも満たない740m2だ。全面復旧には気の遠くなるような作業が待っている。
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天守閣 - 熊本城
天守閣
室町時代の1470年代に、肥後守護菊池氏の一族・出田秀信 (いでた のぶひで) が築いた千葉城が熊本城の起原である。1520年代に、菊池氏は鹿子木親員 (かのこぎ ちかがず) 隈本城 (くまもとじょう) を築城させた。
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天守閣 - 熊本城
天守閣
豊臣秀吉が九州を平定すると、1588年(天正16年)に加藤清正隈本城に入った。清正は、長引く戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために、治水工事や水田開発に力を入れ、公共事業として熊本城の築城を推し進めた。
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天守閣 - 熊本城
天守閣
清正は、南蛮貿易に取り組むなど領地経営を積極的に行うことで、肥後は豊かになっていった。
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加藤清正像 - 熊本城
加藤清正像
清正は領民から慕われ、清正公 (せいしょこう) さんと呼ばれるようになった。

熊本城の近く、国際交流会館の前にある加藤清正像は、甲冑と長烏帽子姿で、熊本城を背に陣中に座るような姿で、熊本を守ろうとしているかのようだ。
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大イチョウ - 熊本城
大イチョウ
天守閣の前にはイチョウの大木がある。熊本城は、別名を銀杏城 (ぎんなんじょう) といい、これは、篭城戦になったときに食料として調達できるよう、加藤清正がイチョウを植えたから
ただし、この大イチョウは雄木なので実はならない。
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行幸坂 - 熊本城
行幸坂
熊本城の前にある行幸坂は桜の名所だ。
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石垣 - 熊本城
石垣
熊本城の石垣は、地面付近は30度ほどと勾配が緩く、上に行くにしたがって勾配が険しくなり、ほぼ垂直に近い絶壁をになる独特な形状をしており、城に侵入しようとする敵兵を退けることから、武者返し (むしゃがえし) と呼ばれる。これは、加藤清正が近江国から率いてきた石工集団・穴太衆 (あのうしゅう) が築いた。

1632年(寛永9年)、豊前小倉城主だった細川忠利が肥後の領主となり、熊本城に入った。忠利は熊本城の修繕と拡張工事を行い、石垣も積み足しており、二様の石垣と呼ばれる部分ができた。
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闇り通路 - 熊本城
闇り通路
本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建っており、地下通路を備えた特異な構造になっている。この地下通路は昼間でも暗いことから、闇り通路 (くらがりつうろ) と呼ばれる。
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天守閣へ - 熊本城
天守閣へ
1877年(明治10年)に起きた西南戦争で政府の拠点となった熊本城は、多くの建物を焼失した。1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を契機に、熊本市は寄付を募って天守閣などを復元した。
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天守閣 - 熊本城
天守閣
天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等が展示され、最上階は展望スペースとなっている。
熊本地震を受け、地震の揺れを低減するクロスダンパーが導入された。
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天守閣 - 熊本城
天守閣
もともとは、大天守の1階と小天守の地階(穴蔵)の往来に、この石階段が使用された。
石段の一番上から1階床までは1メートルの段差があり、2段の箱段が置かれている。緊急時には箱段を取り出すことで、敵が大天守に侵入することを防いだ。
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天守閣 - 熊本城
天守閣
木造天守閣の模型。3重6階地下1階になっている。
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鯱 - 熊本城


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 - 熊本城
天守閣の最上階、展望スペースから熊本市街を望む。ここまでエレベーターで昇降できる。
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 - 熊本城
天守閣からの眺め

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交通アクセス

【鉄道】
  • 熊本城・市役所前電停より徒歩3分
【バス】
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出発地の最寄駅:

目的地:熊本城
熊本城 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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