西暦589年 - 隋による中国統一

わずか38年で滅亡
陽堅(文帝) 北周の外戚 (がいせき) だった陽堅 (ようけん) が、581 年、帝位を奪って (ずい) (581~618)を建国する。陽堅は文帝を名乗り、589 年、南朝の陳を滅ぼし、中国を統一する。
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文帝は中央集権的な律令制度を整備し、門閥貴族による世襲を排除するため、学科試験によって官僚を採用した。これは、後に科挙 (かきょ) と呼ばれるようになり、清が滅亡する直前までの約 1300 年にわたって続くことになる。
604 年、煬帝 (ようだい) が父の文帝を暗殺して帝位に就くと、物資の豊かな杭州から揚子江、黄河を繋ぎ、政治・軍事の中心である北京にいたる全長1800 キロの運河建設に着手する。常に 100 万人の民衆を土木工事に狩り出したうえ、皇帝は遊興にふけったため、民衆の反感を買い、618 年に煬帝は暗殺され、隋はわずか 38 年で滅びることになる。
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ちなみに、聖徳太子が小野妹子を派遣した第2 回遣隋使は煬帝の時代のことである。
YEAR
530
555
580
605
630
 
589
 
隋による中国統一
 
541
陽堅→文帝
604
 
569
煬帝
618
 
554
推古天皇
628
 
574
聖徳大使
622
 
592
 
 
622
 
 
570
ムハンマド
632
(この項おわり)
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