西暦800年 - カールの戴冠

ヨーロッパ世界のはじまり

晴れ (800) て皇帝、カール大帝

カールの戴冠
800 年 12 月 25 日、クリスマスのミサに出席したフランク国王カールは、ローマ教皇レオ 3 世から西ローマ皇帝の冠を授けられた。カール大帝(シャルルマーニュ)である。

これは、ゲルマン、キリスト教、ローマの 3 つの要素が結合し、西欧世界が誕生したことを意味する。
カールの領土
751 年、トゥール・ポアティエの戦いで勝利したカール・マルテルの息子ピピンが、メロヴィング朝の国王を退位させ、自らが即位してカロリング朝を興した。そして、東ローマ(ビザンツ)皇帝と教義上の対立を深めていたローマ教皇に対しラヴェンナを寄進するなど、結びつきを深めた。

ピピンの死後、フランク王国の王となったカールは、773 年、ローマ教皇ハドリアヌス 1 世から援軍を要請される。カールはアルプス山脈を越えてイタリアに攻め込み、ランゴバルド(ロンバルド)を占領し、中部イタリアをハドリアヌスに寄進した。
カールは北ドイツのゲルマン民族の一派ザクセン人(サクソン人)を討伐し、スペインのイスラム勢力を追い払った。
カールは 46 年の治世で 53 回も対外遠征を行っている。

カールは征服した各地に教会や修道院を建て、領地のフランク化を推進した。
また、人口数万人毎に管区を設定し、国王直属の (はく) を置いた。伯の世襲は禁ずることで中央集権化を強めた。

799 年、教皇レオ 3 世は対立勢力に命を狙われ、カールの庇護を受けた。教皇側は西ローマ皇帝の復活を計画する。
カールは西ローマ皇帝が復活することによるビザンツ帝国との不和を懸念したが、広大な領土を治めるためには皇帝の権威も必要であった。一方のローマ教皇は、西ローマ皇帝に対して教皇権が優位であることを確認するとともに、ビザンツ帝国への牽制として西ローマ皇帝の復活は歓迎すべきことであった。
こうして両者の利害が一致し、800 年 12 月 25 日、カールは西ローマ帝国の冠を戴くことになる。

一方、ビザンツ帝国では 802 年に財務官僚であったニケフォロス 1 世が即位する。
二ケフォロス 1 世の財政改革が成果をあげ、フランク王国のカール大帝との対外交渉も平和裏に進んだ。アッバース朝に対しても何回か軍事遠征を行うが、ハールーン・アッラシードの反撃に遭って敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んでいる。
こうして、ビザンツ帝国は久しぶりに安定と繁栄を迎える。
カールの征服活動によって、スペインとイタリア南部を除く西ヨーロッパがひとつになり、ゆるやかだが共通の価値観のもとにまとめられた。
カールの帝国はすぐに分裂するが、この時代の統と分裂は、現代ヨーロッパの地域的枠組みにも影響を及ぼしている。

この時代の世界

675 725 775 825 875 800 カールの戴冠 742 814 カール大帝 750 816 レオ3世 793 ヴァイキングがイングランドへ侵入 732 トゥール・ポアティエの戦い 714 768 ピピン 760 811 ニケフォロス1世 752 大仏の開眼供養 718 785 大伴家持 727 786 坂上苅田麻呂 735 785 藤原種継 758 764 淳仁天皇 733 799 和気清麻呂 750 785 早良親王 737 806 桓武天皇 760 802 阿弖利為 784 長岡京へ遷都 758 811 坂上田村麻呂 767 822 最澄 794 平安京へ遷都 774 824 平城天皇 802 坂上田村麻呂が東国を平定 774 835 空海 804 最澄、空海が唐へ 755 763 安史の乱 742 805 徳宗 780 850 フワーリズミー 750 アッバース朝が成立 786 ハールーン・アッラシードが即位 766 809 ハールーン・アッラシード Tooltip
(この項おわり)
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