西暦901年 - 菅原道真、太宰府へ

菅原道真が大宰府に権帥として左遷
菅原道真
菅原道真
菅原道真 (すがわらのみちざね) 宇多天皇 (うだてんのう) の信任があつく、権勢をふるいつつあった藤原氏の牽制役として、学者としては異例の出世を遂げ、899年(昌泰2年)には右大臣にのぼりつめた。
ところが、901年(昌泰4年)、藤原時平 (ふじわらのときひら) らの陰謀によって、筑前国の大宰府に権帥として左遷された。そして 903年(延喜3年)、無念のうちに死去した。
都府楼跡
都府楼跡 2008年7月27日撮影
その遺骸を都まで送ろうとしたところ、牛車を曳いていた牛が動かなくなった。それはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、そこに墓が作られた。905年(延喜5年)には墓所に廟が建てられた。これが太宰府天満宮の始まりである。
太宰府天満宮
太宰府天満宮 2008年7月27日撮影
道真が亡くなった後、平安京では天変が相次いだ。
908年(延喜8年)には、菅原道真の無実を醍醐天皇 (だいごてんのう) に訴えにきた宇多上皇を皇居に入れずに邪魔した藤原菅根が変死。909年(延喜9年)には陰謀の首謀者である時平が、わずか 39歳で死去。京都は、910年(延喜10年)からは毎年のように洪水や大火事に見舞われた。
930年(延長8年)には、清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫と右中弁平希世ら、数人が雷に撃たれて死亡。醍醐天皇はショックを受けて病に伏し、3ヶ月後に死去した。
このことから、道真の祟りが雷神であるとする「天神説」が生まれた。
これを鎮めるために、959年(天徳3年)、京都に造営されたのが北野天満宮である。

遣唐使の廃止

894年(寛平6年)8月に、参議兼式部大輔として公卿に列せられていた菅原道真は、20回目の遣唐使の大使に任じられる。しかしその1ヶ月後、宇多天皇に派遣の再検討を上申した。唐の国力が衰えており、これまでの実績から遭難するリスクが大きい遣唐使を派遣するほどのベネフィットがないと考えたからである。実際、907年(延喜7年)に唐は滅んでしまった
菅原道真は、今日のような情報化社会でない平安時代において、おそらく複数のルートから情報を入手し、事実を確認し、的確な推論を進めていく点において非凡な才能を持っていたといえる。

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都府楼跡(大宰府政庁跡)

【鉄道】
  • 西鉄「都府楼前」から太宰府市コミュニティバス「まほろば号」で6分、バス停「大宰府政庁跡」下車、徒歩すぐ。
(この項おわり)
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