西暦1000年 - 藤原彰子が中宮に

国文学が盛んになる
若紫 - 源氏物語
長保 2 年(1000 年)2 月 25 日、藤原道長の長女、藤原彰子 (ふじわらのしょうし) が第66 代・一条天皇の中宮(皇后)となる。
女房として、「源氏物語」の作者である紫式部や、歌人・和泉式部をしたがえ、朝廷に華麗な文芸サロンを形成した。

また、これより少し前、中宮定子 (ていし) の女房として、「枕草子 (まくらのそうし) 」の作者とされる清少納言が仕えており、この頃、国文学が盛んになった。
長徳元年(995 年)、兄の中関白 (なかのかんぱく) 藤原道隆 (ふじわらのみちたか) が他界すると、藤原道長が内覧 (ないらん) となり、実質的に政権を掌握した。長保元年(999 年)11 月 1 日、彰子は 8 歳年上の従兄・一条天皇に入内する。
藤原道隆の長女、中宮・藤原定子 (ふじわらのていし) が、11 月 7 日、第一皇子・敦康親王 (あつやすしんのう) を出産したため、彰子は女御 (にょうご) となり、翌年、中宮(皇后)に登り詰める。史上初めて一帝二后の状態となった。
しかし、1000 年の暮れ、定子は第二皇女・媄子内親王 (びしないしんのう) を出産した直後に崩御してしまう。

やがて彰子は中宮として華やかさを誇り、「栄華物語 (えいがものがたり) 」では「かかやく藤壺 (ふじつぼ) 」と賞賛された。
寛弘 5 年(1008 年)9 月 11 日、彰子は第二皇子・敦成親王 (あつひらしんのう) (第68 代・後一条天皇 (ごいちじょうてんのう) )を出産。「紫式部日記」によれば、皇子誕生を長く待望していた父・道長は狂喜したという。

寛弘 8 年(1011 年)6 月 13 日、死の床にあって一条天皇は皇太子・居貞親王 (おきさだしんのう) に譲位し、第67 代・三条天皇が誕生する。このとき、敦成親王の立太子が決定した。
すでに敦康親王の祖父・藤原道隆も母・定子もこの世になく、第一皇子である敦康親王の天皇即位は望むべくもなかった。しかし、一条天皇の真意が第一皇子・敦康親王にあったことを察していた彰子は、敦成親王の立太子を後押しした父・道長を怨んだという。

寛弘 9 年(1012 年)、道長は次女の藤原妍子 (ふじわらのけんし) を三条天皇の中宮に送り込み、寛仁元年(1017 年)5 月 9 日に三条天皇が崩御すると、11 歳になったばかりの後一条天皇の中宮として三女の藤原威子 (ふじわらのいし) を立て、その権勢の絶頂期を迎える。

道長が出家して政界から身を引くと、彰子は弟である藤原頼通 (ふじわらのよりみち) と協力し、摂関政治 (せっかんせいじ) を支えた。

この時代の世界

875 925 975 1025 1075 1125 1000 彰子が中宮に 977 1001 藤原定子 973 1014 紫式部 966 1025 清少納言 980 1011 一条天皇 966 1027 藤原道長 976 1017 三条天皇 978 1030 和泉式部 999 1019 敦康親王 994 1027 藤原妍子 1018 藤原道長の絶頂期 988 1074 藤原彰子 992 1074 藤原頼通 1000 1036 藤原威子 1008 1036 後一条天皇 903 940 平将門 923 952 朱雀天皇 939 承平天慶の乱 915 989 平貞盛 929 990 藤原兼家 953 995 藤原道隆 1000 1057 安部頼時 1000 1062 藤原経清 988 1075 源頼義 979 宋による中国統一 927 976 趙匡胤 922 992 趙普 939 997 太宗 1019 1086 司馬光 1021 1086 王安石 1048 1085 神宗 1070 王安石の改革 980 1037 イブン・スィーナー 934 1025 フェルドウスィー 971 1030 マフムード 1010 「シャー・ナーメ」完成 990 1063 トゥグリル・ベク 1038 セルジューク朝の建国 962 神聖ローマ帝国のはじまり 940 996 ユーグ・カペー 967 987 ルイ5世 987 フランス王国の成立 958 1025 パシレイオス2世 1020 1085 グレゴリウス7世 Tooltip

参考書籍

表紙 暴れん坊少納言
著者 かかし朝浩
出版社 ワニブックス
サイズ コミック
発売日 2007年07月
価格 626円(税込)
rakuten
ISBN 9784847036064
 
(この項おわり)
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