西暦1243年 - キプチャク汗国の成立

トルコ系民族と混じる
『集史』パリ本、ジョチ・ハン紀のバトゥの条より
『集史』パリ本、ジョチ・ハン紀のバトゥの条より
チンギス・ハンは長氏ジュチに、アルタイ山脈の領土「ジュチ=ウルス」を与えた。ジュチの子バトゥは、キエフ公国を滅ぼし、南ロシアから中央アジアに及ぶ広大な領土を支配した。
1243年、ボルガ川下流のサライを都としてキプチャク汗国が成立する。
キプチャクとはモンゴルの侵入以前からカスピ海北岸から南ロシア、カザフスタンの草原地帯で遊牧生活を送っていたトルコ系の民族名で、モンゴル人がそれに同化したために、一般にこの国をキプチャク汗国という。キプチャク=ハン国、金張汗国ともいうが、正式名称はジュチ=ウルスである。

ジュチの征西

1242年、モンゴル帝国第2代ハン、オゴタイ・ハン死去の知らせを受け、バトゥは東ヨーロッパから引き揚げた。
だが、バトゥはモンゴルに戻らず、ヴォルガ川下流の草原地帯に腰を据えて動かなかった。バトゥは父ジュチから引き継いだジュチ=ウルスを維持する道を選んだ。東側にジュチの長男オルダが納めるオルダ=ウルス、西側の広大なキプチャク草原にバトゥ自身の治めるバトゥ・ウルス、その中間にはジョチのその他の子に与えるという広大なジュチ=ウルスをつくりあげた。ロシアとカフカズの北嶺一帯は属領とした。

イスラーム化

14世紀後半、ウズベク・ハンの治世に全盛期となる。公式にイスラーム化し、都をボルガ上流の新サライに移した。
しかし、1359年にバトゥの血統が途絶え、14世紀後半にティムール帝国の進出に対しトクタミシュが抵抗したが、その後国家的統合は失われていった。

滅亡

ロシアは1237年以来、キプチャク汗国の支配を受け、タタールのくびきとして嘆かれていたが、1480年にモスクワ大公国のイヴァン3世が独立を達成し、大国化への道を歩み始めた。
1502年、キプチャク汗国は滅亡した。その領域では、モスクワ大公国とクリム汗国が有力となっていく。

この時代の世界

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