西暦1309年 - 教皇のアヴィニョン捕囚

ローマ教皇はフランス王の言いなり
アヴィニョン教皇庁
アヴィニョン教皇庁
1309年、イタリアから南フランスのアヴィニョンに移された教皇庁に、ローマ教皇クレメンス5世が入る。この直後、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアに侵攻し、教皇はイタリアへ帰国できなくなる。

1377年に教皇グレゴリウス11世がイタリアへ戻るまで、7人の教皇がアヴィニョンで暮らすことになる。これを教皇のアヴィニョン捕囚、または古代のバビロン捕囚になぞらえて教皇のバビロン捕囚と呼ぶ。
200年前にはじまった十字軍遠征は失敗。1291年にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落し、十字軍国家は全滅したことで、ローマ教皇の権威は揺らいでいた。そんななか、1294年に即位したボニファティウス8世は、教皇至上主義を唱えた。
一方、王権の拡大を目論むフランス王フィリップ4世はボニファティウス8世と対立を深め、1303年、フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃するというアナーニ事件が起きる。
ボニファティウス8世はその直後に憤死する。これ以降、ローマ教皇はフランス王の言いなりとなっていった。

フィリップ4世の要請を受け、教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移され、1309年に教皇クレメンス5世がイタリアから移動した。
教皇庁がアナーニ事件の事後処理のためのヴィエンヌ公会議の準備に手間取る間に、フランス王の封建家臣である神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアに侵攻し、クレメンス5世はイタリアへの帰国ができなくなる。
1377年に教皇グレゴリウス11世がイタリアへ戻るまで、教皇のアヴィニョン捕囚が続くことになる。

アヴィニョンから帰還したグレゴリウス11世は、翌1378年に死去。教皇選挙が行われ、イタリア人のウルバヌス6世が選出されるが、フランス人枢機卿らが異を唱え、クレマンス7世を対立教皇として支持し、ローマ教会の大分裂(シスマ)がはじまる。

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