西暦1381年 - 花の御所の完成

足利将軍家の邸宅
花の御所
室町幕府を開いた足利尊氏 (あしかがたかうじ) は北朝を後見するため二条高倉に、2代将軍の足利義詮 (あしかがよしあき) は三条坊門に住んでいた。
3代将軍となった足利義満 (あしかがよしみつ) は、1378年(天授4年)、北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に足利家の邸宅の造営をはじめた。
1381年(天授7年)に完成すると、それまでの三条坊門第から移住する。
庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わり、「花の御所」と呼ばれた。敷地だけでも御所の2倍にも及んだといわれている。

室町通に面して正門が設けられたことから、室町殿、室町第とも呼ばれた。これにちなんで、足利将軍のことを「室町殿 (むろまちどの) 」、足利幕府のことを室町幕府と称する。

1394年(明徳3年)に将軍職を息子の足利義持に譲ると、義満はここから新築した北山第(金閣)へ移り住む。。
花の御所は、8代将軍の足利義政の頃に応仁の乱の戦火で焼失してしまう。その後も何度か再建が繰り返されたが、13代将軍の足利義輝 (あしかがよしてる) が1559年(永禄2年)に二条御所を造営・移転したために廃止された。

室町幕府の体制

室町幕府の体制
足利義満の時代に室町幕府の体制が整った。反後醍醐を旗印に武士を集めたことから、武士を重視した体制を敷いた。

まず、足利家の執事を管領 (かんれい) と呼び、将軍に次ぐ地位を与えた。管領は、細川氏・斯波氏・畠山氏の3氏から交代で任命された。
管領は、中央(京都)において、警備・裁判を担当する侍所 (さむらいどころ) 、財政を担当する政所 (まんどころ) 、記録担当の問注所 (もんちゅうじょ) 、幕府の最高政務機関である評定衆 (ひょうじょうしゅう) を管轄した。また、奉公衆と呼ばれる直轄軍を編成した。

地方では、東国武士を管轄する鎌倉府(鎌倉公方)と、それを補佐する関東管領が置かれた。初代鎌倉公方には足利尊氏の四男・基氏 (もとうじ) が就任し、以後、世襲となった。また、関東管領は上杉氏が世襲していく。
各地の守護は、軍事・警察権のみの鎌倉幕府時代に比べて権限が拡大し、領地内の年貢の半分を徴収することができた。これにより各地の守護は領主としての地位を固め、やがて守護大名として変貌してゆく。守護には、それを補佐する守護代地頭がつく。

この時代の世界

1325 1375 1425 1475 1381 花の御所の完成 1397 金閣建立 1358 1408 足利義満 1336 1392 南北朝時代 1404 日明貿易はじまる 1428 正長の土一揆 1429 琉球国の統一 1347 1424 後亀山天皇 1377 1433 後小松天皇 1356 1400 大内義弘 1395 1423 足利義持 1423 1425 足利義量 1368 明の建国 1328 1398 朱元璋→洪武帝 1377 1402 建文帝 1360 1424 永楽帝 1371 1434 鄭和 1335 1408 李成桂 1392 李成桂が即位 1378 1425 洪熙帝 1378 1417 ローマ教会の大分裂(シスマ) 1326 1417 グレゴリウス12世 1339 1410 アレクサンデル5世 1370 1419 ヨハネス23世 1328 1423 ベネディクトゥス13世 1368 1431 マルティヌス5世 1417 コンスタンツ公会議 1339 1453 百年戦争 1431 ジャンヌ・ダルクの処刑 1412 1431 ジャンヌ・ダルク 1405 1440 ジル・ド・レ 1389 1464 コジモ・デ・メディチ 1397 1455 ニコラウス5世 1394 1460 エンリケ航海王子 1403 1461 シャルル7世 1396 1458 アルフォンソ5世 1455 グーテンベルク聖書の印刷 1398 1468 グーテンベルク 1381 ワット・タイラーの乱 1357 1433 ジョアン1世 1368 1437 ジギスムント 1411 1460 リチャード・プランタジネット 1405 1453 コンスタンティノス11世 1453 東ローマ帝国滅亡 1402 アンカラの戦い 1453 東ローマ帝国滅亡 1402 アンカラの戦い 1377 1447 シャー・ルフ 1396 ニコポリスの戦い Tooltip
(この項おわり)
header