西暦1492年 - 大西洋航路の発見

コロンブスによる新大陸発見
サンタ・マリア号(復元)
イタリア生まれの冒険家コロンブスは、トスカネリの地球球体説を信じ、西回りで行けば東回りの約半分の距離でアジアに到達できると信じていた。

スペインのカスティリーア王国のイザベル女王とアラゴン王国のフェルナンド王の支援を取り付けたコロンブスは、1492年8月、サンタ・マリア号を期間とする3隻の艦隊で大西洋に船出する。70余日の困難な航海の末、コロンブス一行はバハマ諸島のグワナハニ島に至り、サンサルバドル島と命名する。その後、ハイチのエスパニョーラ島に到達するが、コロンブスはこの島を日本と考えた。
コロンブスは、1502年の4回目の航海の際にアメリカ大陸に達する。同時代の探検家アメリゴ・ヴェスプッチは、それが新大陸であると主張するが、コロンブスは生涯にわたりアジア大陸であると信じていた。
これは、コロンブスがプトレマイオスの世界地図を信じていたためである。

紀元前3世紀の古代ギリシアの科学者エラトステネスは、地球の1周が4万6千キロと考えていた(実際は約4万キロ)。ところがこの数字は大きすぎて、当時の人々には想像もつかなかった。
それから400年後、プトレマイオスは地球の1周が2万9千キロ程度とする地図を描いた。
コロンブスの時代、喜望峰経由でアジアに到着するには2万キロを航海していた。このためコロンブスは、西回りの航路であれば9千キロ程度でアジアに到達すると信じていた。

コロンブスがアメリカ大陸を発見したと言われることが多いが、1万年以上前にモンゴロイドが新大陸に移住しているし、中世期にヴァイキングが北米に到達していたという可能性も指摘されている。したがって、コロンブスの業績としては、大西洋航路の発見とした方が無難である。

ヨーロッパが海外に目を向けたのは、オスマン帝国に圧迫されていたからである。
セリム1世がエジプ卜を征服した後、スレイマンのもとで最盛期を迎えたイスラームの雄は、地中海の制海権を握り、ウィーンに迫った。
ハプスブルク家は何とかこれを撃退したが、オスマン帝国とその同盟国フランスに挟撃されて、苦境に立たされる。

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(この項おわり)
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