西暦1526年 - 石見銀山の開発はじまる

日本の商業発展
石見銀山
1526年(大永6年)、博多の豪商・神谷寿貞 (かみや じゅてい) は、周防の戦国大名・大内義興 (おおうち よしおき) の協力を得て、石見銀山の開発をはじめる。
1533年(天文2年)、神谷寿貞は灰吹法 (はいふきほう) を輸入し、銀を効率的に精錬できるようになる。
1562年(永禄5年)、銀山は毛利氏の手に渡り、豊臣秀吉の朝鮮出兵の軍資金にもなった。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、石見銀山を幕府直轄領である天領とし、1601年(慶長6年)に銀山奉行として大久保長安を任命した。

石見銀山の開発開始は、ちょうど日本の商業発展の時代に重なっていた。
西日本では基本通貨として銀が流通するようになり、明、ポルトガル、オランダなどとの交易に利用されるようになった。
当時、日本の銀産出量は年間約200トンで、世界全体の3分の1を占めていたといわれる。このうち、石見銀山は30トンを産出していた。

石見銀山の銀産出は17世紀初頭にピークとなる。江戸末期には深掘りしなければ銀は採れなくなり、地下水との戦いで採算がとれなくなっていった。
1866年(慶応2年)の第二次長州戦争の際、幕府は石見銀山を放棄し、長州藩により支配されることになった。明治維新後は民間に払い下げられ、田中義太郎が経営権を取得した。
1886年(明治19年)からは藤田組(現・DOWAホールディングス)が、銅産出を続ける。日中戦争、太平洋戦争の軍需物資とすることを目論むが、1943年(昭和18年)の水害で行動が水没し、ついに閉山することになった。
2007年(平成19年)、ユネスコの世界遺産に登録された。

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