西暦1527年 - ローマ略奪

教皇の優柔不断
ローマ略奪を描いた銅板画
1527年(大永7年)5月、神聖ローマ帝国軍がイタリアに侵攻し、教皇国のあるローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などの非道を行った。
この頃、イタリアをめぐってヴァロア朝フランス王国と神聖ローマ帝国による衝突が繰り返されてきた。そして、教皇クレメンス7世がフランスと結んだことが、ローマ略奪のきっかけになる。
このとき、スイスの傭兵は最後まで教皇を守り殉死者147人を出した。この事件を契機に、ローマ教皇領(現在のバチカン)の衛兵がスイス人に定められる契機になった。

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(この項おわり)
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