西暦1571年 - 比叡山焼き討ち

天下布武の障害はすべて排除
延暦寺の根本中堂
天下統一を目指す織田信長 (おだのぶなが) にとって、大名だけでなく寺社勢力も乗り越えなければならない障害になっていた。
当時の寺社勢力は、農民層をはじめとして多数の信者を抱えるだけでなく有力大名と結びつきが強く、さらには僧兵集団を形成し、各地で勃発する一揆の後ろ楯となっていた。

比叡山延暦寺 (ひえいさんえんりゃくじ) もそのひとつで、僧たちは修行もせずに堕落していた。それでも神聖不可侵の地として崇められていたうえに、山全体が天然の要害となっていたため、籠城するには好都合であった。実際、織田軍に攻められた浅井長政 (あさいながまさ) 朝倉義景 (あさくらよしかげ) 連合軍は延暦寺に立てこもり、難を逃れたという経緯がある。
また、比叡山は北陸路と東国路の交差点になっている。山上には数多くの坊舎があり、数万の兵を擁することが可能な、戦略的に重要な拠点であった。

1571年(元亀2年)9月、織田信長は延暦寺を完全に包囲し、根本中堂をはじめとする数多くの建物を焼き払い、寺から逃れる者は女子供といえども殺害した。殺された者は3千人とも4千人ともいわれている。

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(この項おわり)
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