西暦1585年 - 秀吉が関白に任官

豊臣時代の到来
豊臣秀吉
1585年(天正13年)、豊臣秀吉関白となる。
翌1586年(天正14年)には豊臣姓を賜って太政大臣となった。

さらに、1591年(天正19年)には関白を養子の豊臣秀次 (とよとみひでつぐ) に譲り、自らを太閤 (たいこう) と称した。
太閤とは、本来、摂政もしくは関白の職をその子弟に譲った人物のことを指すが、現在は秀吉その人を指すことが多い。
1575年(天正3年)に秀吉は筑前守に就任し、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの最中に従五位下・左近衛権少将に叙位任官された。これ以降、官位において主家の織田家を凌駕していくことになる。
1584年(天正12年)に、朝廷から征夷大将軍の任官を打診されるが、これを断り、従三位・権大納言に叙任され、1585年(天正13年)3月に正二位・内大臣に叙任された。
7月に長宗我部元親 (ちょうそかべ もとちか) を攻め、四国を平定すると、二条昭実 (にじょう あきざね) 近衛信輔 (このえ のぶただ) との間で起きていた関白をめぐる争いに介入し、近衛前久 (このえ さきひさ) の猶子となり、関白宣下を受ける。

1586年(天正14年)9月、秀吉は正親町天皇 (おおぎまちてんのう) から豊臣の姓を賜わり、12月には太政大臣に就任する。
秀吉は軍事的に徳川家康を屈服させることができず、融和策として、妹の朝日姫を家康の正室として嫁がせ、母親の大政所 (おおまんどころ) を人質として差し出した。
これを受け、家康は大阪城で秀吉に謁見し、豊臣氏に臣従することを誓う。一方で、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続していたため、秀吉は東国を家康に任せ、西国平定を進めることになる。

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(この項おわり)
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