西暦1603年 - 江戸時代の始まり

徳川家康が征夷大将軍に任官

ヒーローおっさん (1603) 徳川幕府を開く

徳川家康
1603年(慶長8年)3月24日(慶長8年2月12日)、徳川家康征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん) に任じられた。これをもって江戸幕府の始まりとする。

1605年(慶長10年)、家康は将軍職を息子の秀忠 (ひでただ) に譲るが、大御所 (おおごしょ) として政治の実権を握り続ける。
江戸時代は、15代将軍徳川慶喜 (とくがわよしのぶ) が1867年(慶応3年)11月9日(慶応3年10月14日)に大政奉還を行うまで、264年間続いた。

征夷大将軍と源氏長者

武家の時代にあっても、朝廷から授けられる官位は重要であった。
当初官位が無かった豊臣秀吉は、大規模な御所造営を望んでいる正親町天皇に多額の寄進するなど、朝廷工作を進めていた。1585年(天正13年)7月、近衛家に養子縁組を認めさせ、秀吉は藤原の姓を得て、従一位・関白の地位を手に入れる。
官位で徳川家康の上に立った秀吉は、1590年(天正18年)7月13日、小田原の陣の論功行賞で家康を関東に領地替えを命じた。家康は、この仕打ちに不満を漏らすことも無く、源氏姓を名乗り、東国武士を傘下に収めていった。

その頃、家康は、源氏長者の位を得れば、関白を超えられると考えていた。過去に、源氏長者であった将軍・足利義満 (あしかがよしみつ) は、明の永楽帝 (えいらくてい) から日本国王と認められた例があるからだ。

1596年(文禄4年)、家康は正二位・内大臣の位に就く。
1598年(慶長3年)8月18日、秀吉が没すると、五大老のうち最高の官位にあった家康は、事実上の筆頭家老になった。
関ヶ原の戦いで勝利した家康は朝廷工作を進め、1602年(慶長7年)正月、従一位になる。
1603年(慶長8年)2月12日、天皇から征夷大将軍への任官と、内大臣・従一位・源朝臣 (みなもとあそん) の宣旨を賜り、ついに源氏長者となった。家康が、武家と公家の頂点に立った瞬間である。

徳川将軍家は、代々、征夷大将軍と源氏長者が受け継がれることになる。

日光東照宮

銅宝塔(徳川家康墓)- 日光東照宮
徳川家康を神格化した東照大権現 (とうしょうだいごんげん) を祀る日光東照宮(栃木県日光市山内2301)の奥宮にある銅宝塔が徳川家康の墓である。

日光東照宮は江戸城の鬼門(北東の方角)に位置し、江戸の街を守っていると言われている。しかし地図を見ると、江戸城の真北よりやや西寄りに位置している。
日光東照宮の謎」(高藤晴俊/講談社/1996年(平成8年)03月)によれば、日光が江戸の守護神であることは間違いないが、それは北極星を神とする北辰信仰に基づくものだという。
日光は源頼朝の時代に開かれ、古くから修験道の霊山として、蝦夷との境界に位置する「関八州の鬼門」とされてきた。このことが鬼門の方位と混同されたのではないかという。

徳川家康の足跡

徳川家康像 (岡崎城)
徳川家康像 (岡崎城)
NHK大河ドラマ第62作『どうする家康』(2023年1月放映開始)は、室町時代後期から江戸時代を舞台に徳川家康を描く。

1543年(天文12年)12月26日、徳川家康は岡崎城主・松平広忠 (まつだいら ひろただ) の嫡男として岡崎城において産まれる。幼名は竹千代 (たけちよ) といった。

1543年(天文12年)8月2日、竹千代は6歳で人質として今川氏の駿府へ護送されたが、途中、義母の父・戸田康光 (とだ やすみつ) の裏切りにより、尾張国の武将で織田信長の父・織田信秀 (おだ のぶひで) へ送られた。
1549年(天文18年)4月3日に父・広忠が死去すると、岡崎城は今川氏から派遣された城代に支配され、11月8日、今川氏と織田氏の間で行われた人質交換によって、竹千代は今川義元 (いまがわ よしもと) の人質となる。
今川義元像 (臨済寺)
今川義元像 (臨済寺)
病弱だった竹千代に、祖母・源応尼 (げんおうに) (のちの華陽院 (けよういん) 、於満の方)に面倒をみてもらいながら、智源院の智短和尚に手習いを学んだ。
1555年(天文24年)3月、14歳になった竹千代は今川氏の下で元服し、義元から「元」の1字をもらい、次郎三郎元信と改名した。1557年(弘治3年)1月15日、元信は蔵人元康と改名し、義元のすすめで瀬名姫(今川義元の姪、築山殿)と結婚した。
1558年(弘治4年)に今川家から離反し織田信長に通じた鈴木重辰の寺部城を攻め、これが初陣となった。
織田信長
織田信長
1559年(永禄2年)3月、長男の信康(幼名:竹千代)が生まれる。
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いにおいて、元康は鵜殿長照 (うどのながてる) が守る大高城に兵糧を届け、長照に代わり城の守備についた。義元の敗北を知った元康は岡崎城に下がり、1561年(永禄4年)には今川氏と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。1563年(永禄6年)に、義元からもらった「元」を返上し、家康と名を改めた。1563年(永禄6年)から1564年にかけ、蓮如の曾孫で本證寺 (ほんしょうじ) 空誓 (くうせい) が中心となって三河一向一揆が起き、離反者も出たが、家康は何とか和議に持ち込む。
武田信玄
武田信玄
1566年(永禄9年)に朝廷から藤原氏を認められ、従五位下三河守に叙任され、徳川に改姓した。
1567年(永禄10年)に岡崎城を信康に譲り、浜松城に移り、武田信玄と同盟を結んで遠江国を所領とする。その後、織田・徳川連合は武田氏と敵対関係となる。
1570年(元亀元年)6月に、姉川の戦いで、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を退ける。
足利義昭
足利義昭
1573年(元亀4年)1月、上洛を開始した武田信玄は、浜松城の家康を誘い出し、三方ヶ原の戦いが起きる。家康は惨敗したが、家臣の団結が強まり、三河武士団の礎となった。
5月に信玄が病死。武田軍と結んで織田信長を討とうとした室町幕府第15代将軍・足利義昭は、逆に信長によって追放され、ここに室町幕府が滅亡する。
長篠の戦い
長篠の戦い
1575年6月29日(天正3年5月21日)、長篠城の西方、設楽原 (したらがはら) で、織田信長・徳川家康連合軍3万8,000人と武田勝頼軍1万5,000人が衝突し、長篠の戦い (ながしののたたかい) が起きる。連合軍は3,000丁の鉄砲を用意し、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられた。
築山殿
築山殿
1578年(天正6年)、急死した上杉謙信の後継者を争う御館の乱 (おたてのらん) が勃発し、上杉景勝と武田勝頼が乱を制し、武田・北条同盟が破綻する。1579年(天正7年)に北条氏は家康と同盟を結んだ。一方、信長は、家康の正室・築山殿と嫡男・信康が武田氏に内通したとして、切腹させる。
582年3月、武田氏は滅亡した。最大の功労者である徳川家康は駿河一国を与えられ、三河・遠江・駿河の三国を領する大大名になった。
富士山
富士山
しかし、家康の所領は織田と北条の間に挟まれており、これ以上の領土拡大は見込めなかった。家康は信長のことを「上様」と呼ぶようになり、天竜川に橋を架けたり、武田氏の支配地だった富士登山口の大宮を焼き洗い、信長を迎える御座所をつくるなどして、安土城へ凱旋帰国する信長を手厚く接待した。
本能寺
本能寺
1582年(天正10年)5月、駿河拝領の礼のため、家康は安土城を訪れ、大接待を受けた。6月、本能寺の変が起きる。少人数の供と境にいた家康は身の危険を感じ、本多忠勝や服部半蔵の進言を受けて、伊賀越えを敢行し、辛うじて三河国に帰国した。
織田信雄
織田信雄
1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い (しずがたけのたたかい) 柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を推戴するようになった。これを快く思わなかった信長の次男・織田信雄 (おだ のぶかつ) は家康と結び、1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いを起こして秀吉と戦う。数の上で不利だった織田・徳川連合軍は奇襲で羽柴軍を破った。秀吉は伊勢国へ転進し、織田信雄を攻め、和睦へ持ち込んだ。家康は秀吉と戦う大義を失ったため、三河国へ引き上げた。
豊臣秀吉
豊臣秀吉
小牧・長久手の戦いの頃、関東から東海一帯で地震や大雨が続き、家康は戦いを継続できる状況になかった。

1585年(天正13年)に秀吉は関白となり豊臣性を賜るが、家康の存在が脅威だった。1586年(天正14年)に秀吉は家康の懐柔を試み、実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出した。10月に家康は大阪城で秀吉に謁見し、豊臣氏に臣従することを誓う。
駿府城天守閣の想像図
駿府城天守閣の想像図
1568年(永禄11年)11月に家康は上洛し、正三位に叙され、多くの家臣も叙任された。12月に、居城を浜松城から駿府城へ移した。
1587年(天正15年)8月に再び上洛し、秀吉の推挙により従二位・権大納言に叙任され、駿河大納言と呼ばれるようになる。
北条氏直
北条氏直
家康は、縁戚関係にあった北条氏に秀吉へ恭順するよう促したが、氏直はこれに応じなかった。
1590年(天正18年)1月、家康は三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて、事実上の人質とすることで、あらためて秀吉への臣従の意思を明確にした。これを受け、秀吉は北条氏討伐に着手する。秀吉は30万の軍勢を率いて東征し、4月には小田原城を包囲。3ヶ月の籠城の後、北条氏が降伏し、秀吉による天下統一が実現する。
江戸城天守台
江戸城天守台
いわゆる太閤検地を受けて、1590年(天正18年)7月、家康は5か国(駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国)を召し上げられ、北条氏の旧領である関八州(武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部)に移封された。石高は120万石から250万石への大幅加増だが、北条氏の税率が四公六民と極めて低かったことから、実収入は期待できなかった。
8月に家康は江戸へ入府し、江戸城を居城とした。四公六民は、享保の改革で引き上げられるまでつづいた。
文禄の役
文禄の役
1590年(天正18年)6月、秀吉の命令により豊臣秀次 (とよとみ ひでつぐ) を総大将とする奥州再仕置軍が編成され、家康もこれに加わった。8月までに奥州各地の争いを鎮圧し、検地を行い、所領の没収や移封を行い郡代や代官を設置した。こうして秀吉の天下統一が完成した。

1589年(天正17年)5月に秀吉と淀殿の間に産まれた嫡男・鶴松は、1591年(天正19年)8月に病死した。秀吉の落胆は大きく、12月には秀次に関白の座を譲り、自らを太閤と称し、唐入り(中国出兵)を目指す。
1592年(天正20年)、朝鮮出兵文禄の役)が始まるが、家康は肥前名護屋城にとどまった。
豊臣秀次
豊臣秀次
1593年(文禄元年)8月、淀殿が豊臣秀頼 (とよとみ ひでより) を出産する。1595年(文禄3年)6月に突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がり、自害となった。秀吉は諸大名に上洛を命じ、家康も伏見城に滞在するようになる。
1596年(文禄4年)5月、内大臣に任ぜられた家康は、江戸の内府と呼ばれるようになる。
1597年(慶長2年)、慶長の役がはじまるが、このときも家康は渡海しなかった。
石田三成
石田三成
1598年(慶長3年)5月、秀吉は病に伏し、徳川家康、前田利家前田利長宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元五大老五奉行を定め、秀頼を補佐させた。8月に秀吉が世を去る。

五大老の筆頭となった家康は、同じ五大老の前田利家や五奉行の石田三成から専横と糾弾されるが、逆に三成が襲撃され、三成は五奉行を退任して佐和山城に蟄居する。
ウィリアム・アダムス(三浦安針)
ウィリアム・アダムス(三浦安針)
1600年(慶長5年)3月、豊後国にオランダのリーフデ号が漂着した。家康はリーフデ号を大阪へ移し、航海長のウィリアム・アダムス(三浦安針)や船員のヤン・ヨーステンは家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。とくにウィリアム・アダムスは航海技術だけでなく、数学と天文学も得意としており、家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作るなどして、家康の寵愛を受けた。
鳥居元忠
鳥居元忠
同じ頃、五大老の一人で会津の上杉景勝 (うえすぎ かげかつ) に謀反の噂が広がる。後陽成天皇豊臣秀頼から下賜があり、景勝討伐の大義名分を得た家康は、6月に杉氏征伐に出征する。
7月に三成は大谷吉継 (おおたに よしつぐ) とともに挙兵し大阪城・西の丸を奪い返し、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立し、伏見城を攻め、家康古参の重臣・鳥居元忠が戦死する。
下野国小山の陣において元忠の使者の報告により三成の挙兵を知った家康は、上方へ反転。三成に反感をもつ福島正則らを味方につけ、10万人ほどの東軍が結成される。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い
家康は江戸城に1か月ほど留まり、近親や外様の諸将に200通近い書状を送った。家康は9月に江戸城を出陣し、9月15日に美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。正午頃に西軍の小早川秀秋の軍勢が東軍に寝返り、東軍の完勝に終わった。
二条城の唐門
二条城の唐門
家康は、三成をはじめ、西軍に与した諸大名のほとんどを処刑や流罪、改易し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配した。家康の領地は400万石となり、一方、豊臣家は5万石の一大名となった。
12月に家康の奏上により、空位だった関白に九条兼孝が任じられ、五摂家に関白職が戻った。1603年(慶長8年)2月、後陽成天皇が家康を征夷大将軍に任命した。また、秀吉の遺言を受けて、孫娘(秀忠の長女)の千姫と秀頼に嫁がせる。
徳川秀忠
徳川秀忠
1605年(慶長10年)4月、家康は将軍職を辞し、秀忠が征夷大将軍に任命され、以後、将軍職は徳川氏が世襲していくことになる。1607年(慶長12年)に駿府城に移り、朝廷、寺社、西国大名に目配りをする大御所政治を開始する。外交面では、朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復する。
豊臣秀頼
豊臣秀頼
1609年(慶長14年)にオランダ施設と会見し、平戸にオランダ東インド会社の商館開設を許可。1613年(慶長18年)には平戸にイギリス東インド会社の商館開設を許可。
1610年(慶長15年)に足尾銅山を開山。石見金山、佐渡金山とあわせて、江戸幕府の主要な財源となる。
1611年(慶長16年)3月、二条城で豊臣秀頼と会見する。
大阪城
大阪城
秀頼は家康と共同で、秀吉が建立したものの1596年(文禄4年)の慶長伏見地震で大破した方広寺大仏(京の大仏)の再建を進めた。幕府は、1614年(慶長19年)に完成した梵鐘の銘文に刻まれた「国家安康」は家康の名を分断して呪詛する言葉であり、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむものだとして糾弾した。豊臣氏は弁明を試みるが聞き入れてもらえず、1614年(慶長19年)11月15日に家康は20万の大軍で大阪城を包囲(大坂冬の陣)。真田丸の戦いでは敗戦を喫するものの戦局への影響はなく、豊臣氏は和睦の条件として大阪城の堀を埋めることになった。
その後、幕府は豊臣氏が浪人を集めて戦の準備を進めていると詰問し、1615年(慶長20年)に再び大阪城を攻める(大坂夏の陣。5月8日、秀吉と淀殿らは大阪城で自害し、豊臣宗家は滅亡した。
銅宝塔(徳川家康墓) - 日光東照宮
銅宝塔(徳川家康墓) - 日光東照宮
1615年(慶長20年)に禁中並公家諸法度および武家諸法度を発布し、朝廷と幕府を東征し、徳川氏による日本全域の支配を実現した。
1616年(元和2年)1月21日に、鷹狩りに出た先で病に倒れる。3月21日に太政大臣に任ぜられる。武家出身者としては、平清盛、足利義満、豊臣秀吉に次いで史上4人目のことだった。
4月17日、駿府城において75歳(満73歳)で死去した。その日のうちに遺骸は久能山に移され、遺言通り、一周忌を経て日光東照宮に分霊された。
家康の死因は、天ぷらの食中毒という説が一般的であるが、天ぷらを食べてから死去するまで約3ヶ月と時間が空いており、また、『徳川実紀』には家康が見る間に痩せていき、吐血や腹に触れるほどの大きさのしこりがあったことなどを記していることから、胃がんとする説が有力になっている。

この時代の世界

1475 1525 1575 1625 1675 1500 1500 1500 1500 1500 1500 1500 1500 1600 1600 1600 1600 1600 1600 1600 1600 1603 江戸時代の始まり 1542 1616 徳川家康 1527 1596 酒井忠次 1548 1610 本多忠勝 1548 1606 榊原康政 1561 1602 井伊直政 1560 桶狭間の戦い 1519 1560 今川義元 1534 1582 織田信長 1582 本能寺の変 1528 1582 明智光秀 1536 1598 豊臣秀吉 1568 1595 豊臣秀次 1593 1615 豊臣秀頼 1567 1615 淀君 1521 1573 武田信玄 1546 1582 武田勝頼 1584 小牧・長久手の戦い 1585 豊臣秀吉が関白に任官 1582 1590 天正遣欧少年使節 1587 バテレン追放令 1588 刀狩り令 1588 聚楽第で大茶会が催される 1590 秀吉による天下統一 1583 賤ヶ岳の戦い 1522 1583 柴田勝家 1547 1583 お市の方 1570 姉川の戦い 1545 1573 浅井長政 1533 1573 朝倉義景 1536 1582 井伊直虎 1600 関ヶ原の戦い 1560 1600 石田三成 1553 1625 毛利輝元 1564 1620 ウィリアム・アダムス 1582 1602 小早川秀秋 1568 1623 黒田長政 1561 1624 福島正則 1546 1604 黒田如水 1579 1632 徳川秀忠 1573 1626 お江与の方 1567 1636 伊達政宗 1567 1615 真田幸村 1592 文禄の役 1597 慶長の役 1591 千利休、切腹 1522 1591 千利休 1539 1599 前田利家 1567 1612 小西行長 1562 1611 加藤清正 1567 1612 有馬晴信 1571 1646 柳生宗矩 1536 1643 天海 1569 1633 崇伝 1573 室町幕府が滅ぶ 1537 1597 足利義昭 1571 1617 後陽成天皇 1609 サンフランシスコ号が漂着 1613 慶長遣欧使節団がスペインへ出発 1584 1645 宮本武蔵 1614 大阪冬の陣 1615 武家諸法度、禁中並公家諸法度 1615 大阪夏の陣 1547 1611 真田昌幸 1602 オランダ東インド会社設立 1600 イギリス東インド会社設立 1559 1626 ヌルハチ 1648 清の建国 1606 1645 李自成 1610 1644 崇禎帝 1600 「ハムレット」の完成 1564 1616 シェークスピア 1561 1626 フランシス・ベーコン 1588 アルマダ戦争 1533 1603 エリザベス1世 1543 1596 フランシス・ドレーク 1566 1625 ジェームズ1世 1568 1609 ネーデルラント独立戦争 1547 1616 セルバンテス 1619 ケプラーの法則 1571 1630 ケプラー 1564 1642 ガリレオ・ガリレイ 1611 欽定訳聖書 1583 1645 フーゴー・グローティウス 1620 ピリグリム・ファーザーズ 1553 1610 アンリ4世 1603 『ウラノメトリア』出版 1572 1625 ヨハン・バイエル 1598 ナントの勅令 1585 1642 リシュリュー 1598 シビル・ハン国の滅亡 1592 1666 シャー・ジャハーン 1571 1629 アッバース1世 1620 ピリグリム・ファーザーズ Tooltip

参考書籍

表紙 戦国・織豊期の武家と天皇
著者 池享
出版社 校倉書房
サイズ 単行本
発売日 2003年10月
価格 6,600円(税込)
ISBN 9784751734803
本書は、戦国・織豊期における武家の政治的支配と天皇がどのように関わっていたのかについて、著者が論じた文章をまとめたものである。
 

交通アクセス

【自動車】
  • 東北自動車道「宇都宮I.C.」から日光宇都宮道路を経て「日光I.C.」で下り、約2キロ。
行き方ナビ
出発地の最寄駅:

目的地:日光東照宮

参考サイト

(この項おわり)
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