西暦1979年 - イラン革命/ソ連のアフガニスタン侵攻

イラン革命の波及と西欧諸国の対応

イラン革命

イラン革命
イラン革命
1979年(昭和54年)2月11日、イランで革命が起きパフレヴィー朝が倒れ、イラン=イスラム共和国が成立した。その後、イランアメリカ大使館人質事件が起き、ホメイニを中心とするイスラム国家体制が固められ、全世界のイスラム復古運動に大きな影響を与えることになった。
レザー=ハーン
レザー=ハーン
カージャール朝のコサック旅団長であったレザー=ハーンは、1921年(大正10年)、テヘランで決起し、国軍最高司令官となって実権を握った。地の遊牧部族の反乱を鎮圧して無政府状態を終わらせ、1925年(大正14年)、国王アフマド=シャーを退位させ、自らが皇帝となりパフレヴィー朝を起こした。
レザー=ハーンはイスラム以前のイラン固有文化の復興に力を入れ、1935年(昭和10年)、国号をペルシアからイランに改称した。国家の近代化を進めたことで多くからの支持を集めたものの、イスラムを軽んじたために反発を生むことにもなった。
パフレヴィー2世
パフレヴィー2世
第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツ寄りの政策を採ったため、1941年(昭和16年)、イギリス・ソ連連合軍の進駐により退位を余儀なくされ、子のパフレヴィー2世が跡を継いだ。
戦後、石油輸出国となり西側陣営に与し、アメリカの支援を受けて白色革命と呼ばれる石油利潤を元にした工業化と近代化を進めた。
イラン国民の大半が属するシーア派の精神的指導者だったルーホッラー・ホメイニは、パフレヴィー2世の独裁政治に対する抵抗運動を続けたが、1964年(昭和39年)、国外追放となった。
しかし、原油価格の下落が続き国民生活は向上せず、アメリカへの従属の度合いを増していた。
ルーホッラー・ホメイニ
ルーホッラー・ホメイニ
1978年(昭和53年)、ホメイニを誹謗する新聞記事が掲載されると、それが政府の陰謀であるという暴動が起こり、パフレヴィー2世は1979年(昭和54年)1月、国外へ脱出した。代わって亡命先のパリから戻ったホメイニが1979年(昭和54年)2月11日、政権を掌握した。
国民投票の結果、4月1日、イラン=イスラム共和国が成立し、初代大統領にアボルハサン・バニサドルが就任した。しかし、王制打倒に結集した勢力はイスラム勢力のほか、共産主義者や民族主義者など様々であり、国家体制のあり方をめぐって激しい抗争が繰り広げられた。
イランアメリカ大使館人質事件
イランアメリカ大使館人質事件
パフレヴィー朝を支援していたアメリカはイスラム共和国体制を敵視していたが、1979年(昭和54年)11月4日、テヘランのアメリカ大使館が暴徒に占拠されるというイランアメリカ大使館人質事件が発生する。犯人は亡命中のパフレヴィー2世の身柄引き渡しを要求した。
ジミー・カーター大統領
ジミー・カーター大統領
カーター大統領は1980年(昭和55年)4月、軍事力による人質奪還を試みるが失敗。1980年(昭和55年)7月、亡命先のカイロでパフレヴィー2世が死去したことで大使館占拠の大義名分が失われた。
1981年(昭和56年)、ロナルド・レーガンが大統領に就任し、イランは仲介国と人質の返還でアメリカと合意し、1月20日、444日ぶりに人質が解放された。
ルーホッラー・ホメイニ
ルーホッラー・ホメイニ
1980年(昭和55年)5月の選挙でイスラム共和党が圧勝し、憲法が制定され、ホメイニに国会最高指導者の地位を与え、イスラム聖職者の独裁に反対するグループは次々と粛清された。こうしてホメイニを中心とするイスラム国家体制が固められ、全世界のイスラム復古運動に大きな影響を与えることになった。

ソ連のアフガニスタン侵攻

ソ連のアフガニスタン侵攻
ソ連のアフガニスタン侵攻
1979年(昭和54年)、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党政権は、イスラム保守層など国内の抵抗勢力を抑えきれず、ソビエト連邦に軍事支援を要請した。12月24日、ソ連軍は国境を越えてアフガニスタンに侵攻、特殊部隊がアミーン大統領を殺害し、カールマルを新たな大統領とする政権を樹立した。
アマヌッラー国王
アマヌッラー国王
19世紀後半、ロシアの南下政策とイギリス領インドに挟まれたアフガニスタン首長国は、外交権を譲渡するなどして、イギリスの保護国となった。その後の紛争やロシア革命を経て、1919年(大正8年)、アマヌッラー国王のもとイギリスからの独立を果たす。
第二次大戦中は中立政策をとり、冷戦時代に入ると、隣国であるソビエト連邦とアメリカの駆け引きの中で、うまく援助を引き出した。
ムハンマド・ダーウード
ムハンマド・ダーウード
王政のもとで近代化と改革は進められたが、共産勢力が1965年(昭和40年)、アフガン人民民主党(PDPA)を結成。1973年(昭和48年)、クーデターを起こして王制を打倒、アフガニスタン共和国が誕生する。
大統領に就任したムハンマド・ダーウードは、共産勢力と距離を置こうとしたが、1978年(昭和53年)4月に社会主義革命が起きて一族もろとも暗殺されてしまう。こうして、PDPAを率いてきたヌール・ムハンマド・タラキを新大統領とするアフガニスタン民主共和国が誕生する。
ヌール・ムハンマド・タラキ
ヌール・ムハンマド・タラキ
権力を握ったPDPAでは内部抗争が起き、女性の社会進出の促進、土地改革等の改革はイスラム保守層だけでなく、農村部の地主、一般国民の不満を高めることになった。そんな中、全土でムジャーヒディーン(異教徒からの攻撃に対しイスラム共同体を守るイスラム戦士・民兵組織)が蜂起した。
ハーフィズッラー・アミン
ハーフィズッラー・アミン
1979年(昭和54年)2月にイラン革命が起きると、副首相ハーフィズッラー・アミンがタラキを殺害し、大統領に就任。11月にイラン・アメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始する。
ムハンマド・ナジーブッラー
ムハンマド・ナジーブッラー
パキスタン経由でアメリカの支援を受けたムジャーヒディーン各派は、ソ連への攻撃を活発化させた。ソ連軍は苦戦を強いられ、駐留が長期化、犠牲者や財政支出も想定を超えて膨らんでいった。
1987年(昭和62年)、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。
ビン・ラディン
ビン・ラディン
1989年(昭和64年)、ソ連軍の撤退が完了した。だが、撤退後の国内支配をめぐり、再びアフガニスタン紛争が起きる。1992年(平成4年)、ナジーブッラー政権が崩壊し、アフガニスタン・イスラム国が成立。1994年(平成6年)、内戦が全土に広がり、ビン・ラディンが率いるタリバンなどイスラム過激派が勢力を拡大することになる。

この時代の世界

1875 1900 1925 1950 1975 2000 2025 1979 1989 ソ連のアフガニスタン侵攻 1979 イラン革命 1902 1989 ルーホッラー・ホメイニ 1990 1991 湾岸戦争 1957 2011 オサマ・ビン・ラディン 2003 イラク戦争 1906 1982 ブレジネフ 1902 1988 マレンコフ 1911 1985 チェルネンコ 1914 1984 アンドロポフ 1986 チェルノブイリ原子力発電所事故 1911 2004 ロナルド・レーガン 1971 インテル、4004発表 1965 1975 ベトナム戦争 1973 ウォーターゲート事件 1974 「アルテア8800」発売 1977 Apple II 発売 1979 スリーマイル島原子力発電所事故 1920 1992 アイザック・アシモフ 1907 1988 ロバート・A・ハインライン 1977 ボイジャー1号打ち上げ 1981 スペースシャトル初飛行 1981 IBM PC発売 1989 ベルリンの壁崩壊 1892 1980 チトー 1901 1989 昭和天皇 1907 1988 三木武夫 1918 1993 田中角栄 1972 沖縄返還 1976 ロッキード事件 1975 1976 沖縄国際海洋博覧会 1982 PC-9801発売 1985 日本航空123便墜落事故 1970 大阪万博の開催 1970 三島由紀夫が割腹自殺 1970 人工衛星「おおすみ」打ち上げ 1983 ファミリーコンピュータ発売 1915 1989 胡耀邦 1914 1991 江青 1989 天安門事件 1966 1976 文化大革命 1965 1975 ベトナム戦争 Tooltip
(この項おわり)
header