西暦628年 - 『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』発刊

ゼロを「数」として扱った現存最古の書物
ブラフマグプタ
ブラフマグプタ
628年、インドの数学者・天文学者ブラフマグプタが『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』を著した。全25章のうち23章が天文学、2章が数学にあてられている。

この本は、ゼロを桁の空位 (くうい) を示す記号ではなく、足し算や引き算ができるとして定義し、その計算規則を書き残した現存最古の書物として知られる。負の数の計算規則も、あわせて示されている。

目次

著者ブラフマグプタと7世紀のインド

ビッラマーラの街と学者
ビッラマーラ(イメージ)
ブラフマグプタは598年の生まれとされる。本書に「シャカ紀元550年、ジシュヌの子ブラフマグプタ、 (よわい) 30が……」と自ら記しており、シャカ紀元550年が西暦628年にあたることから、生年が逆算されている。執筆地はビッラマーラ(現在のラージャスターン州ビンマル)で、当時この地方は瞿折羅 (くせつら) (グルジャラ)と呼ばれた王国の領域であった。
ブラフマグプタは、のちにウッジャイン(ウッジャイニー)の天文台長を務めたと伝えられる。ウッジャインは当時のインド天文学の中心地で、499年に『アーリヤバティーヤ』を著したアーリヤバタ以来の学統があった。665年、67歳のときには『カンダ・カーディヤカ』を著している。こちらは8章からなる実用的な天文計算の書で、正弦(サイン)の値を求めるための補間公式を含む。没年は670年ごろとされる。

当時の北インドは、ハルシャ・ヴァルダナがヴァルダナ朝を築いて統一していたが、647年に彼が没すると、後継者が定まらないまま国は分裂した。デカン高原ではプラケーシン2世のチャールキア朝がハルシャの南下をはばみ、北のチベット高原ではソンツェン・ガンボが吐蕃を建国している。

629年に唐を発ってインドに向かった僧玄奘三蔵は、ハルシャの保護を受けてナーランダー僧院で学び、645年に唐へ帰国した。ブラフマグプタが本書を書いた628年は、玄奘がインドへ向かう直前にあたる。中国では618年に唐が建国され、西アジアでは622年にムハンマドがヒジュラ(聖遷)を行い、日本では聖徳太子の没後、大化の改新(645年)へ向かう時期であった。

『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』の中身

書名は「ブラフマ学派の、正しく確立された教説」といった意味である。全編が韻文 (いんぶん) (詩の形)で書かれている。当時のインドでは、学問の書は暗記して口伝えするものであり、記憶しやすい詩の形にするのが普通であった。

25章のうち23章は天文学にあてられ、日食・月食の予測、惑星の位置の計算、月の満ち欠けなどを扱う。数学は第12章「ガニタ」(算術)と第18章「クッタカ」(代数)の2章である。

幾何学では、円に内接する四角形の面積を求めるブラフマグプタの公式を示した。四角形の1辺の長さを0とすると、三角形の面積を求めるヘロンの公式になる。対角線が直交する内接四角形について、交点から1辺に下ろした垂線を延長すると対辺を二等分する、というブラフマグプタの定理も本書にある。

代数では、(a²+b²)(c²+d²) が (ac−bd)²+(ad+bc)² と書けるという二平方恒等式を示した。また、x²−92y²=1 という方程式の最小の整数解が x=1151、y=120 であることを求めている。この形の方程式は、後にヨーロッパでペル方程式と呼ばれるようになるものである。ブラフマグプタは、この問題を「1年以内に解ける者を数学者と呼ぼう」と読者に投げかけた。

ゼロを「数」として扱う

財産と借金でゼロと負の数を説明する
財産と借金にたとえて正負の数を説く(イメージ)
第18章で、ブラフマグプタはゼロを「ある数から、その同じ数を引いた結果」と定義した。桁が空いていることを示す印ではなく、それ自体が計算の対象になる数として扱った点が新しい。

そのうえで、数に0を足しても、数から0を引いても、その数は変わらない。0から0を引けば0。どんな数に0を掛けても0になる、といった規則を並べた。
ブラフマグプタは、負の数も同時に扱った。正の数を「財産」、負の数を「借金」にたとえ、財産と財産の和は財産、借金と借金の和は借金、財産と借金の和は両者の差になる、と説明する。掛け算では、財産と財産の積は財産、借金と借金の積は財産(負×負=正)、財産と借金の積は借金、と規則を示した。ヨーロッパで負の数が数として広く認められるのは、これより1000年ほど後のことである。

一方、0で割ることについては、ブラフマグプタも答えを出せなかった。ある数を0で割った結果は「分母が0の分数」としか書かず、0÷0=0であるとした。現代の数学では、0で割ることは定義できないとされており、0÷0も0ではない。この点は誤りである。

12世紀の数学者バースカラ2世は、数を0で割った結果を、いくら足しても変わらない「限りなく大きい量」(カハーラ/khahara)ととらえ直した。0による割り算は、その後も長く数学者を悩ませ続けることになる。

本書より前にゼロはあったか

バクシャーリー写本の点で書かれたゼロ
白樺の樹皮に点で記されたゼロ(イメージ)
桁の空きを示す記号としてのゼロは、本書よりずっと前からある。古代バビロニアでは紀元前3世紀ごろ、くさび形の記号を2つ並べて空位を示した。中央アメリカのマヤ文明も、独自の記号で空位を表していた。ただし、いずれも「その桁が空いている」ことを示す印であり、単独で計算に使う数ではなかった。
インドでも「シューニヤ(空)」ということばは古くからあり、紀元前後の韻律書などに現れる。499年にアーリヤバタが著した『アーリヤバティーヤ』は、十進位取りの考え方を用いているが、ゼロの記号は使わず、数を語で言い表していた。

記号としてのゼロの古い例が、1881年に現在のパキスタン北西部のバクシャーリー村で見つかったバクシャーリー写本である。白樺 (しらかば) の樹皮に書かれた数学書で、位取りの空いた桁に点(・)が使われている。2017年、この写本を所蔵するオックスフォード大学ボドリアン図書館が、放射性炭素年代測定の結果として3〜4世紀のものと発表し、「世界最古のゼロ」として大きく報じられた。

ただし、この年代には異論がある。写本の紙葉は年代の異なる複数の部分が混ざっている可能性があり、測定されたのは3枚だけである。書かれている内容や書体からは7世紀以降とみる研究者もおり、2017年に数学史の研究者グループが反論を発表している。

年代のはっきりした碑文 (ひぶん) では、カンボジアで見つかったK-127碑文(683年)や、インド中部グワリオルのチャトゥルブジャ寺院の碑文(876年)に、点や小さな丸のゼロが刻まれている。いずれも本書より後のものである。

つまり、記号としてのゼロは本書より前から使われていた可能性が高い。本書が最初なのは、ゼロを数として扱い、その計算規則を文章で書き残したという点である。

後世に与えた影響

バグダードに伝えられたインドの天文書
バグダードに伝えられたインドの天文書
771年ごろ、インドからバグダードのアッバース朝の宮廷に使節が訪れ、インドの天文書がもたらされた。アル・ファザーリーらがサンスクリット語からアラビア語へ訳し、その天文表は『シンドヒンド』と呼ばれた。これが、インドの数学と天文学がイスラーム世界に入る入口となった。
825年ごろ、アッバース朝の数学者フワーリズミーが『インドの数の計算法』を著し、ゼロを含む十進位取り記数法をアラビア世界に定着させた。この本は12世紀にラテン語へ訳され、「アルゴリズム」と「アラビア数字」という語の由来になった。

ヨーロッパでこの記数法が広まる決め手となったのは、1202年にレオナルド・フィボナッチが著した『算盤の書』(リベル・アバチ)である。両替や利息の計算に便利なことが示され、15世紀の活版印刷の普及とともに全土へ広がった。

インド国内では、12世紀のバースカラ2世が本書の代数を受け継ぎ、x²−Ny²=1 という形の方程式の一般的な解法(チャクラヴァーラ法)に到達した。ブラフマグプタが示した x²−92y²=1 の解は、その出発点にあたる。

ゼロと負の数を数として扱えるようになったことで、方程式を場合分けせずに書けるようになり、代数学は大きく進んだ。今日のコンピュータも、0と1という2つの数字だけで計算している。628年の一冊は、その最初の一歩を記した書物である。

参考サイト

この時代の世界

525 575 625 675 725 600 600 700 700 628 『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』発刊 598 670 ブラフマグプタ 590 647 ハルシャ・ヴァルダナ 600 642 プラケーシン2世 581 649 ソンツェン・ガンボ 589 隋による中国統一 618 唐の建国 598 649 太宗 628 683 高宗 645 玄奘が唐に帰国 602 664 玄奘三蔵 676 新羅が朝鮮半島を統一 624 705 則天武后 690 則天武后の専制 574 622 聖徳太子 603 冠位十二階 604 十七条憲法 614 669 中臣鎌足→藤原鎌足 626 671 天智天皇 645 大化の改新 663 白村江の戦い 622 ヒジュラ(聖遷) 637 カーディシーヤの戦い 642 ニハーヴァンドの戦い 661 ウマイヤ朝の成立 Tooltip
(この項おわり)
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