メスメルのバケツ療法
1780年頃のパリで、メスメルは治療法を大きく変化させた。患者が増え、個別治療だけでは対応できなくなったため、baquet(バケツ/磁気桶)を用いる集団治療を確立したのである。バケツは桶状の装置で、内部に磁化された水や瓶を入れ、そこから突き出た鉄棒に患者が触れる。患者たちは輪になって座り、ときに互いの身体をつなぎ、音楽や静かな儀式的雰囲気の中で「磁気」の作用を受けた。ここでは医学的処置、演出、集団心理、期待感が一体化していた。バケはメスメリズムを個人治療から一種の社会的・劇場的実践へ変えた装置であった。

メスメルはもともとウィーンで活動し、1770年代には磁石を用いた治療を試みたが、やがて磁石そのものよりも、術者の身体に蓄えられた動物磁気が本質だと考えるようになった。
1775年には、悪魔祓いで名声を得ていた神父ヨハン・ヨーゼフ・ガスナーの治療について意見を求められた。メスメルは、ガスナーの効果を超自然的な悪魔祓いではなく、本人も気づかず用いている動物磁気の作用だと説明した。ここに、宗教的治癒を自然哲学・医学の言葉へ置き換えようとする啓蒙主義的転換が見られる。

モーツァルトとの関係も興味深い。若きモーツァルトのジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』は、メスメルがの庭園劇場で上演されたと伝えられ、メスメルが委嘱した可能性がある。ただし、この初演伝承には不確かな点もある。
また、のちの『コジ・ファン・トゥッテ』には、磁気治療を風刺する場面があり、メスメリズムがが当時のウィーンやパリの知的流行として広く知られていたことを示している。

一方、メスメルの理論は科学的検証にさらされた。1784年、ルイ16世の命により、ベンジャミン・フランクリン、ラヴォアジェらを含む委員会が動物磁気を調査した。
委員会は、物理的な「磁気流体」の存在を支持する証拠はなく、観察された効果は接触、想像力、模倣によって説明できると結論づけた。これはメスメルの理論には打撃であったが、逆に言えば、暗示・期待・集団感染が身体反応を生むという問題を、科学的に扱う契機にもなった。

後世への影響は大きい。19世紀には、メスメリズムは文学・芸術・音楽において、見えない力、意志の支配、夢遊状態、二重意識、霊感、病的魅惑などの主題と結びついた。ロマン主義文学やゴシック小説では、人間の理性の下に潜む無意識的領域を表す格好の素材となった。メスメルの医学理論自体は退けられても、「人の心が身体を動かす」「他者の暗示が意識を変える」という発想は、近代文化の想像力を刺激し続けたのである。

とくに重要なのがジェイムズ・ブレイドへの影響である。ブレイドは1841年に動物磁気の実演を見て、当初は懐疑的であったが、現象そのものを観察するうちに、磁気流体ではなく、注意の集中、生理的疲労、暗示によって説明できると考えた。彼は1843年に「催眠 hypnotism」という語を提案し、メスメリズムを神秘的流体の理論から切り離して、心理生理学的現象として再定義した。つまり、ブレイドはメスメルを否定しながら継承したのである。
メスメルのバケツ治療は科学としては崩れたが、そこから催眠研究、心理療法、暗示の科学が生まれた点に、彼の歴史的意義がある。
メスメルはもともとウィーンで活動し、1770年代には磁石を用いた治療を試みたが、やがて磁石そのものよりも、術者の身体に蓄えられた動物磁気が本質だと考えるようになった。
1775年には、悪魔祓いで名声を得ていた神父ヨハン・ヨーゼフ・ガスナーの治療について意見を求められた。メスメルは、ガスナーの効果を超自然的な悪魔祓いではなく、本人も気づかず用いている動物磁気の作用だと説明した。ここに、宗教的治癒を自然哲学・医学の言葉へ置き換えようとする啓蒙主義的転換が見られる。
モーツァルトとの関係も興味深い。若きモーツァルトのジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』は、メスメルがの庭園劇場で上演されたと伝えられ、メスメルが委嘱した可能性がある。ただし、この初演伝承には不確かな点もある。
また、のちの『コジ・ファン・トゥッテ』には、磁気治療を風刺する場面があり、メスメリズムがが当時のウィーンやパリの知的流行として広く知られていたことを示している。
一方、メスメルの理論は科学的検証にさらされた。1784年、ルイ16世の命により、ベンジャミン・フランクリン、ラヴォアジェらを含む委員会が動物磁気を調査した。
委員会は、物理的な「磁気流体」の存在を支持する証拠はなく、観察された効果は接触、想像力、模倣によって説明できると結論づけた。これはメスメルの理論には打撃であったが、逆に言えば、暗示・期待・集団感染が身体反応を生むという問題を、科学的に扱う契機にもなった。
後世への影響は大きい。19世紀には、メスメリズムは文学・芸術・音楽において、見えない力、意志の支配、夢遊状態、二重意識、霊感、病的魅惑などの主題と結びついた。ロマン主義文学やゴシック小説では、人間の理性の下に潜む無意識的領域を表す格好の素材となった。メスメルの医学理論自体は退けられても、「人の心が身体を動かす」「他者の暗示が意識を変える」という発想は、近代文化の想像力を刺激し続けたのである。
とくに重要なのがジェイムズ・ブレイドへの影響である。ブレイドは1841年に動物磁気の実演を見て、当初は懐疑的であったが、現象そのものを観察するうちに、磁気流体ではなく、注意の集中、生理的疲労、暗示によって説明できると考えた。彼は1843年に「催眠 hypnotism」という語を提案し、メスメリズムを神秘的流体の理論から切り離して、心理生理学的現象として再定義した。つまり、ブレイドはメスメルを否定しながら継承したのである。
メスメルのバケツ治療は科学としては崩れたが、そこから催眠研究、心理療法、暗示の科学が生まれた点に、彼の歴史的意義がある。
参考書籍
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メスメリズム: 磁気的セラピー | ||
| 著者 | フランツ・アントン・メスマー/ギルバート・フランカウ/広本 勝也 | ||
| 出版社 | 鳥影社 | ||
| サイズ | 単行本 | ||
| 発売日 | 2023年03月31日 | ||
| 価格 | 1,980円(税込) | ||
| ISBN | 9784867820100 | ||
| 催眠学、暗示療法の祖、メスマーの生涯と学説。 スピリチュアル・サイコロジーの概略も紹介している基本文献。 待望の本邦初の完訳! メスマー自身は催眠術師を自称したことはなかった。が、体内を流れる磁気についての学説を体系化し、患者の精神、とりわけ潜在意識に働きかける治療を無意識のうちに取り入れていたのではないか、と考えられる。メスマーの死後、神秘的な性格や魔術性が取り除かれ、彼の学説および施術が継承されつつ、彼の意図を超えて心理的な治療に応用されて、二〇世紀初期のフロイト的な精神分析につながっていく。(「日本語訳者あとがき」より) ギルバート・フランカウ「紹介のための序論」 フランツ・アントン・メスマー「動物磁気の発見に関する覚書」 読者への序文 動物磁気の発見に関する覚書 主張すべき命題 付記 ミス・パラディースの症例 日本語訳者あとがき 参考文献 | |||
この時代の世界
(この項おわり)


メスメルの思想の中心は、人間・動物・宇宙には目に見えない流体的な力が流れており、病気はその流れの不調和によって起こる、という考えであった。この力を術者が整えることで症状を改善できるとしたのである。