『科学的とはどういう意味か』――理系/文系の垣根を越えて

森博嗣=著
表紙 科学的とはどういう意味か
著者 森博嗣
出版社 幻冬舎
サイズ 新書
発売日 2011年06月
価格 820円(税込)
rakuten
ISBN 9784344982208
科学の発展とは、そういった「神」の支配からの「卒業」だったのだ。(130ページ)

概要

著者は、工学部建築学科で研究するかたわら作家デビューした森博嗣さん。たいへん読みやすい文章だが、本書の目的に反して文系人間からはクレームが付きそうな予感がする。理系も文系も差別なく柔軟に思考し行動する子どもや部下を育てるべきではないか。
一方、「科学の存在理由、科学の目標とは、人間の幸せである」という主張には賛成する。人間を不幸にするような疑似科学は、科学によって是正されなければならない。

レビュー

研究・科学実験のイラスト
第2章で「科学とは『誰にでも再現ができるもの』」(75ページ)という科学の定義を紹介する。これは、学校では教わることがないのだが、社会人になっても科学的思考を止めていない人なら、人は誰もが知っている常識だ。
そして森さんは、文系人間が理系人間に抱くコンプレックスを、「『理系科目に落ちこぼれた』という自己評価がもたらす心理にちがいない」(99ページ)と指摘する。これは事実だと思う。
だが、こういう書き方は、かえって文系人間の反発を買うのではなかろうか。
135ページに紹介しているジャイロモノレールの例は、森さん自身が研究発表した事例だけに、大変わかりやすい。東日本大震災の事例もわかりやすいが、残念なのは、それ以外の具体的事例が少ないということだ。
森さんが指摘しているように、文系人間は客観より主観に偏っているとしたら、まずは具体的で卑近な事例と感想を並べ上げ、そこから客観的事実をとりだし、普遍化してやる必要があるのではないかと感じる。でないと、せっかく「科学的とはどういう意味か」を説明しても、結局。文系人間はチンプンカンプンのレッテルを貼るのではなかろうか。(彼らはレッテル貼りも好きだと推測する。)
森さんには申し訳ないが、私は文系人間に説明を行うときは、こうした点に注意を払うようにしていこうと感じた次第。

私は、ヒトを文系と理系に分けること自体が無益なことだと考えている。
あるときは科学的に思考し、あるときは文系のように流される――東日本大震災のデータを冷徹に分析し、被害をできるだけ防ぐためにはどうしたらいいかと科学的に検討しつつも、家族を失った方々、被災された方々のの悲痛な叫びには涙する――そんな臨機応変な考え方ができる人こそ、本当の社会人ではないだろうか。

森さんは最後に「科学の存在理由、科学の目標とは、人間の幸せである。したがって、もし人間を不幸にするものがあれば、それは間違った科学、つまり非科学にほかならない。そして、そうした間違いを防ぐものもまた、正しい科学以外にないのである」(186ページ)と結んでいる。まったく同感である。

あとがきで森さんは「まだまだ非科学的なことが横行しているのはどうしてなのだろう」(189ページ)と疑問を呈する。
私も同じ疑問を感じているのだが、これは、考えることに時間をかけることが軽視される風潮のためではなかろうか。
本書の冒頭でテストの話題が出たが、森さんの想定に反し、私は限られた時間で一定の結果を求められるシーンが増えていると思う。たとえば学校では補習授業が減った。会社では残業が悪習のように言われるようになった。PCやスマホの演算速度は、かつてのスパコン並みになり、ネットをググれば即座に答えが見つかる。
補習を受けない/残業をしない/すぐ答えを見つけることが求められている現代社会では、論理的思考や科学的検証といった時間のかかる手続きを踏まず、前例に沿うのが優秀な人材なのである。
だが、これは大きな間違いだ。過去/実績データを検索・表示するのは人間の仕事ではない。コンピュータが代行可能な作業である。ヒトはカメのようにのろまで結構。一歩下がって二歩前進するのがヒトであり、それは今までの人類史を見れば自明のことである。

理系も文系も差別なく柔軟に思考し行動する子どもや部下を育てるのが、私のミッションである。
親の言うことを聞かない子ども、上司の言うことを聞かない部下、大いに結構。だが、そのとき貴方は、自分自身の脳で思考し、自分自身の心で行くべき道を決めなければならない。
(2013年12月7日 読了)

参考サイト

(この項おわり)
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