『ホモ・デウス』――人間中心からデータ中心へ

ユヴァル・ノア・ハラリ=著
表紙 ホモ・デウス(上)
著者 ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之
出版社 河出書房新社
サイズ 単行本
発売日 2018年09月05日
価格 2,052円(税込)
rakuten
ISBN 9784309227368
共同主観的なものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人間のコミュニケーションに依存している。(180ページ)

概要

著者は、イスラエル人歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリさん。前作『サピエンス全史』の最後で触れた、人類の幸福や超ホモ・サピエンスについて、具体的に説明してゆく。
本書は、プロセスやアウトプットを明記したハウツー本ではない。読みながら自分の頭で考えをめぐらせる余裕がある人が読むものである。『サピエンス全史』より、さらに考える時間を求められるだろう。当然、読み進むスピードも落ちる。
歴史、宗教(とくにユダヤ・キリスト教氏史)、哲学、進化学、心理学に関心がある人向け。そうでない方は、『サピエンス全史』から読み進むことをお勧めする。

レビュー

冒頭で、ハラリさんは、人類はこれまでの歴史で、常に飢饉と疫病と戦争という3つの問題に取り組んできたとしたうえで、現代社会はこれらの問題を解決しつつあり、人類は次に不死と幸福と神性を目標に掲げるのではないかと推測する。「人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている」(59ページ)と指摘する。
プロローグとしての第1章はやや冗長だが、演劇の「デウス・エクス・マキナ」よろしく、ここから本編の開幕となる。

「第1部 ホモ・サピエンスが世界を征服する」で、ハラリさんは、「心と魂」について論じる。「心」「魂」「精神」「情動」という複数の表記があり混乱するが、読み込んでゆくと、「心は魂とは完全に別物」(134ページ)、「心は、苦痛や快楽、怒り、愛といった主観的経験の流れ」としたうえで、「心=精神=情動」は動物も持っているという立場をとる。
一方で、農業革命によってアニミズムの神々は後退し、「森羅万象の支配者が人間に他の動物の支配権を与えた」(121ページ)という。心を持っているはずの家畜を狭い小屋に閉じ込めたり、屠殺するのは、新しい神がサピエンスに与えた権利だというのである。
ハラリさんは、人間と動物を分けるポイントとして、知能や道具作りの能力ではなく、「多くの人間どうしを結びつける能力」(165ページ)と主張する。

ハラリさんは、現実には、主観的現実、客観的現実、そして共同主観的現実の3種類があるという。動物も主観的・客観的現実は認識できるが、唯一、サピエンスだけが共同主観的現実を認識できると主張する。
協同主観的現実とは、たとえば、1ドル札のように、客観的な価値はないものの、何十億もの人がその価値を信じているかぎり、それを使って食べ物や飲み物や衣服を買うことができる物事を指す。
ハラリさんは、「サピエンスが世界を支配しているのは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブ――ただ彼らに共通の想像の中にだけ存在する法律やさまざまな力、もの、場所のウェブ――を織り成すことができるから」という(187ページ)。個や群れの力ではなく、国家規模の集団力を発揮できるのはサピエンスだけだというわけだ。

さらに、「共同主観的なものを生み出すこの能力は、人間と動物を分けるだけではなく、人文科学と生命科学も隔てている」(188ページ)のだという。なせなら、「歴史学者が神や国家といった共同主観的なものの発展を理解しようとするのに対して、生物学者はそのようなものの存在はほとんど認めない」からだ。

共同主観的現実は、たとえそれが虚構であっても効力を発揮する。
ハラリさんは、「今日でさえ、アメリカの大統領が就任の宣誓を行なうときには、片手を聖書の上に置く。同様に、アメリカとイギリスを含め、世界の多くの国では法廷の証人は、真実を、すべての真実を、そして真実だけを述べることを誓うときに、片手を聖書の上に置く。これほど多くの虚構と神話と誤りに満ちた書物にかけて真実を述べると誓うとは、なんと皮肉なことだろう」と指摘する(215ページ)。

「脳と心」というお題で小論文を書いたのは30年以上前の話だ。だが、当時より突っ込んだ内容を書く自信がない。研究をしていないというのは言い訳に過ぎない。この30年間、多くの優秀な研究者に出会い、話をする機会があった――にもかかわらず、にである。
本書で、「共同主観的現実」という第三の視点を与えられたことで、この難問の突破口が見えてきた気がする。歴史や心理学などの人文“科学”は、自然科学とまったく異なるスキームに立脚しているということであれば、課題解決の方針を変えなくてはいけない。

ハラリさんは、「人間の法や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教だ」(223ページ)という。宗教は、科学ができない倫理的な判断を下すこともできる。だから、科学とは競合関係ではなく、協力関係にあるという。
逆に、「霊的な旅」は反体制的であり、宗教とは相容れないという。なぜなら、「社会全体ではなく、個々の人間にだけふさわしい、孤独な道のりだからだ」(230ページ)。
(2019年01月14日 読了)
表紙 ホモ・デウス(下)
著者 ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田 裕之
出版社 河出書房新社
サイズ 単行本
発売日 2018年09月05日
価格 2,052円(税込)
rakuten
ISBN 9784309227375
人間至上主義が「次の感情に耳を傾けよ!」と命じたのに対して、データ至上主義は今や「アルゴリズムに耳を傾けよ!」と命令する。(239ページ)

概要

ホモ・デウス』下巻は、現代社会の「取り決め」から考察をはじめる。
科学革命の先に人間至上主義が登場するが、テクノロジーの発展により、システムがおすすめの商品や健康管理のアドバイスをするだけでなく、思考過程や判断にまで介入するようになるだろう。こうして人間至上主義は終焉を迎え、ハラリさんはデータ至上主義の時代に入ると予言する。
データ駆動型のシステム設計を旨としている私にとっては、ハラリさんの考え方に共感を覚えるが、データ至上主義社会は修羅の世界である。自由主義と個人主義を経験していない人間は、たちまちシステムに取り込まれてしまうだろう。
本書のタイトル「ホモ・デウス」が何を指すのが消化不良の感は拭えないが、アーサー・C・クラークのSF『幼年期の終わり』の最後を連想した――さて、私たちはどこから来て、どこへ行くのだろうか。

レビュー

安倍晋三首相が取り上げられ、「日本経済を20年に及ぶ不況から抜け出させることを約束して2012年に就任した。その約束を果たすために彼が採用した積極的でやや異例の措置は、『アベノミクス」と呼ばれてきた」(16ページ)と紹介されている。
ハラリさんは、科学革命の先にある変化を人間至上主義であると指摘し、「倫理において、人間至上主義者のモットーは、『もしそれで気持ちが良いのなら、そうすればいい』」(43ページ)という。
自由市場経済が消費者の善なる心に委ねられているように、自由主義政治もまた、国民の善なる心に依存しているという。だが、本当に「善なる心」は存在するのだろうか。

宗教全盛期は「代表的な知識の公式は、知識=聖書×論理」(50ページ)だったが、科学革命が起きると「知識=観察に基づくデータ×数学」(51ページ)に変わった。さらに人間主義の時代は「知識=経験×感性」(52ページ)だという。
たしかにその通りかもしれない。代替医療や反原発運動など、「観察に基づくデータ×数学」は軽視され、「経験×感性」で語られている。だが、本当にそれでいいのだろうか。聖書という「聖典」がない分、その知識は宗教より恣意的な変化を受けやすい。

ハラリさんは自由意志が存在しないと主張する。
なぜなら、「ニューロンが発火するとき、それは外部の刺激に対する決定論的な反応か、ことによると、放射性元素の自然発生的な崩壊のようなランダムな出来事の結果かもしれない。どちらの選択肢にも、自由意志の入り込む余地はない」(105ページ)からだ。
自分の知識や意志は、他人の思想や感情、本やテレビの影響を受けたものではないか。それらを入力として、生化学的アルゴリズムの集合体によって出力されたものが「自由意志」ではないか――ハラリさんは、読者に問いかける。

ハラリさんは、さらに続ける。「アルゴリズムが人間を求人市場から押しのけていけば、富と権力は全能のアルゴリズムを所有する、ほんのわずかなエリート層の手に集中して、空前の社会的・政治的不平等を生み出すかもしれない」(135ページ)。「テクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう」(158ページ)。
システムが、私たち個人の内部に入り込んでゆく。Googleは健康情報を集め、適切なアドバイスをしてくれる。Cortanaは秘書として、勝手に他者とのコミュニケーションを始める。やがて、個人の特性を判別し、システムが最適な判断を下すようになるかもしれない。
これは人工知能を想定すれば分かりやすい問いかけだが、豊かさを享受した人間は、薬物とコンピューターゲームに浸るという、そんなデストピアがやって来るだろうか。

テクノロジーの進歩により私たちの暮らしは良くなった。だが、「人はたいてい、不運な祖先とではなく、もっと幸運な同時代人と自分を比較する」(185ページ)という点に注意しなければならない。人々は、19世紀の工場労働者と比べて豊かになったと諭されるより、テレビに出てくる金持ちのような暮らしがしたいのである。
システムの介入を受けずに自由であり続ける人との間で、さらに格差は広がるだろう。そうなった場合、現代の自由主義は崩壊するだろうと、ハラリさんは言う。

最後に「データ至上主義」を紹介する。ハラリさんは、データ至上主義を「森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まる」(209ページ)と定義する。
自由や人権を尊ぶ方面から反発を受けそうだが、これまで述べられてきたように、テクノロジーの発達によって、それらは幻想になろうとしている。最後に残るのは「データ」だというのだ。
この視点に立つと、「資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する」(211ページ)というだけで、イデオロギーの違いは無意味になる。そして、資本主義が勝利したのは、「少なくともテクノロジーが加速度的に変化する時代には、分散型データ処理が集中型データ処理よりもうまくいくから」(214ページ)という。

ハラリさんは、「人間中心からデータ中心へという世界観の変化は、たんなる哲学的な革命ではなく、実際的な革命になるだろう」(237ページ)と予言する。
(2019年01月22日 読了)

参考サイト

(この項おわり)
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