『宇宙消失』――ありえないことなんて、ありえない

グレッグ・イーガン=著
表紙 宇宙消失
著者 グレッグ・イーガン/山岸真
出版社 東京創元社
サイズ 文庫
発売日 1999年08月27日
価格 1,100円(税込)
rakuten
ISBN 9784488711016
彼女は笑った。「違う。だが、おまえの五感が知覚しているわたしは、ほんもののローラだといえる。わたしはローラの代弁者だ――あるいは、ローラ・プラス・拡散中の“おまえ・プラス・玻葵・プラス・その他の人々の”、主としてローラの、だが」(312ページ)

あらすじ

シュレーディンガーの猫
シュレーディンガーの猫
2034年、地球の夜空から一夜にして星々が消えた。冥王星軌道の倍の半径を持つ暗黒の球体「バブル」が突然現れ、太陽系を包み込んだのだ。世界を恐慌が襲った。バブルについて様々な仮説が乱れ飛んだが、決着がつかないまま33年が過ぎた――。
元警官のニック・スタヴリアノスは、警備の厳重な病院から失踪した女性ローラ・アンドルーズの捜索を依頼される。
ローラを追ってBDIにたどりついたニックは、しかし、そこで囚われ、警官として脳に埋め込んだ忠誠モッドが〈アンサンブル〉に忠誠を誓うように設定される。
ニックは、波動関数への干渉実験を続ける錘玻葵(チェン・ポークウイ)の警護をしながら、劉九重(リウ・キウチュン)から〈真のアンサンブル〉の存在を知らされる。
玻葵の力を借りたニックは、「拡散」と「収縮」を繰り返し、ついにBDIの金庫の奥にある〈真のアンサンブル〉に辿り着く。そしてローラを名乗る“存在”に遭遇。「バブル」の正体を知ることになる――。

レビュー

本書末尾に、「訳者あとがき」と、(いろもの物理学者)前野昌弘さんによる解説が20ページにわたって続く――量子力学の波動関数をネタにしたハードSFでありながら、敬虔なキリスト教徒でプログラマでもある著者グレッグ・イーガンによる神学論のようなゴシック・ストーリーに意識を持っていかれないよう、心して読むように。

主人公ニックは、毒ガス発生装置の中にいるシュレーディンガーの猫である。脳には、ナノテクノロジーの結晶であるモッドを埋め込み、死んだ妻の幻影を見ながら、生死に興味がないといった毎日を送っている。
そして、地球そのものも箱に閉じ込められている――33年前に発生した「バブル」によって、太陽系の外側を一切観測することができなくなった。
世界はパニックに陥り、新興宗教や疑似科学が跳梁跋扈する。しかし、グレッグ・イーガンはニックの口を借りて、これらを痛烈に批判する――では、その完璧に近い脳がなにをした? 人類は何千年ものあいだ、自分たちの手にあまることが起こるたびに、たくさんある可能性の中からなぜそれが起きたかを説明しようとして、宗教や擬似科学といった馬鹿げた屁理屈を発明してきた。そして神の御業は完璧だとされ、神がだめなら進化がまつりあげられた。どちらの場合も、御業への干渉は冒潰と呼ばれた。文化全体がそんなたわごとを捨て去るには、まだ長い時間がかかるだろう。だが、真実はこうだ。宗教や擬似科学は、自分たちに手が届かないものをあきらめるための、ただの時代遅れな口実にすぎない。(282ページ)

話を戻そう。本書のネタとなっている波動関数は、1926年、物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーが発表した。ちょうどカルテットが弦楽器の音波を重ね合わせるように、量子は重ね合わせができる(これを「アンサンブル」と呼ぶ)ことを示したのが、波動関数だ。波動関数では確率を保存するが、それは、統計学のようなマクロ的な視点で扱う「確率」とは意味合いが異なる。そこで、シュレーディンガーは、シュレーディンガーの猫というパラドックスを紹介し、量子力学の確率論的解釈の間違いを指摘した。
本書でも、電子サイコロや電子錠など、総当たりで解読するのに莫大な時間がかかる「確率」を、波動関数的に「拡散」したニックが簡単に解いてしまう。量子コンピュータが、既知の暗号方式を解読できるのと同じ意味である。
重ね合った量子のイメージは、本書終盤で「ローラ=おまえ・プラス・玻葵・プラス・その他の人々」として姿を現す。

「拡散」したニックとは、一体、何だったのだろう。観測者としての人類は、観測することによって波動関数に影響を与えているのだろうか。もしかして、私が読んでいる『宇宙消失』と、あなたが読んでいる『宇宙消失』の間には、微妙な違いがあるかもしれない――何千、何万という『宇宙消失』のバージョンがあり、それらが重なり合っている‥‥
ありえないことなんて、ありえない――それが、リアル世界なのではないか。本書を読んだ後、そんなフレーズが脳をかすめた。
(2020/07/04 読了)

参考サイト

(この項おわり)
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