『立花隆の最終講義』――東大生と語り尽くした6時間

立花隆=著
表紙 立花隆の最終講義
著者 立花 隆
出版社 文藝春秋
サイズ 新書
発売日 2021年10月20日頃
価格 990円(税込)
ISBN 9784166613359
マスコミの世界とサイエンスの世界に共通して必要とされる精神が、「職業的懐疑の精神」(professional skepticism)です。(30ページ)

概要

大学のイラスト
本書は、2021年4月に亡くなったノンフィクション作家の立花隆 (たちばな たかし) さんが、2010年6月に母校・東京大学の立花ゼミ生に向けて行った講義録だ。取材、執筆、編集までを学生にやらせたという。
立花さんは、1974年に『田中角栄研究』を上梓し首相退陣のきっかけを作ったことで有名なジャーナリストだが、その後はノンフィクション分野にも進出し、『臨死体験』『宇宙からの帰還』など多くの著作を残している。
その活動範囲の広さから知の巨人と呼ばれることもある。本書もそうだが、ともかく話す内容が広く、ある話題から別の話題へ即座にジャンプするので、ゼミ生の皆さんは、自らの知力を総動員して話を聞き取ったのだと思う。
各章末にゼミ生が用意した用語説明がある。これを覚えておけば、オタク知識が増えること、請け合いである。

ただ、話があちこちに飛ぶので、論理の飛躍が出てくる。たとえば、冒頭では「デカルト座標が人類を本能的な極座標思考様式から解き放った」(38ページ)と書いておきながら、後半では「大事なことは、デカルトの時代はあらゆる意味で終わったとハッキリ認識すること」(199ページ)とある。
これは矛盾ではなく、立花さんがデカルトその人となりにスポットを当てているわけではなく、デカルトの思考法のうち、現代でも通用するものとそうでないものを仕分けた結果の発言だろう。これを20代の大学生に理解しろというのは無理筋なのだが、立花さんに近い視点で世界を見ることができる歳になってから読み返してみると、もう一度、極座標に戻してみるのも面白いと感じる。
デカルト座標で考えるなら、相手との最短距離はピタゴラスの定理を用いて簡単に求まる。だが、現実世界での相手との距離感は、直線でないことが多い。途中に第三者を挟む場合もある。相手が遠いと見えなくなる。つまり、極座標と球面三角法による距離(弧を描く)の方が、現実に近いように感じる。
デカルト座標系(直交座標系)と極座標系の相互変換ができる知識・経験があるという前提で――世界の中心に自分がいて、そこから何のフィルターも挟まずに肉眼で天空(世界)の動きを観察し、自分の頭で考察してはどうだろうか――誰が言ったわけでもない、あらたな世界観が見えてくるかもしれない。

レビュー

中二病のイラスト(女性)
70歳になった立花さんは、冒頭、死について語る。60代と70代とでは、自分の死が見えてきたなという心理的な変化が大きいという。そして、70歳から20代の頃を振り返り、オウム真理教受刑者を引き合いに出しながら、「たくさんの人が20代前半で取り返しのつかない大失敗をしているもの」「適切な失敗の積み重ねがない人には、将来の成功は訪れて来ない」(15ページ)と指摘する。そして、「若いときの大失敗の原因でいちばん多いのは『思い込み』」(17ページ)「『オレだけが特別』という思い込み」(97ページ)だという。
思い込みというのは、ある意味、純粋さであろう。大人が純粋でなくなるのは、知識や経験が増え、さまざまな視点から考えを巡らせることができるようになるからだ。立花さんは、これを「ドッペルモナーキー」と呼ぶ。
逆に考えると、若者ならいざ知らず、「思い込み」が激しい大人は考えものだ。反科学・反医療・陰謀論を信じている大人に、そういう傾向があるように感じる。
科学を信頼している人ほど疑似科学を信じてしまいやすい陰謀論を信じる年齢は「中二」がピークという研究報告がある。
立花さんも、若い頃、ガセネタに動かされたという。だが、「伝えられたときに、面白くてつい飛びつきたくなる情報は、だいたい相当危ないから気をつけるべき」(265ページ)「ガセネタに何度か騙されてみないと、ウソとホントの見分け方が学習できません」(29ページ)という。そして、「マスコミの世界とサイエンスの世界に共通して必要とされる精神が、『職業的懐疑の精神』」(30ページ)という。これは大切なことだ。
自分の思い描いていたような未来を実現するために必要なリソースが自分に不足していることから生まれてくる欲求不満」(43ページ)が、反科学・反医療・陰謀論に傾倒するのだろう(『人は科学が苦手』(三井誠=著)参照)。立花さんは適切なアドバイスはないと言うが、私は、ともかく勉強することしかないと思う。それでも「分からない」ことが増えるのは恥ずかしいことではないと考えている。
なぜなら、自分の知的財産をバランスシートにたとえると、知識・経験を資産として計上する過程で、どうしたって「分からない」が残る。この「分からない」ことは負債として計上し、両者のバランスがとれていれば、知的財産の規模が大きくなっていることを意味するからだ。幾つになっても学ぶことを止めず、「分からない」ことは正直に「分からない」と言うえる大人になろうではないか。
立花さんは、「そもそもこの世のあらゆる問題の正解はひとつではない」(113ページ)という。社会に出れば、そのことは受け入れざるを得ない。受け入れられないまま社会人を続けると、心を壊される。プラグマティズムの考え方で行こう。
本の虫のイラスト(女性)
立花さんは、「少なくとも100冊以上本を読んだ人でないと、平凡な内容の本でも、1冊の本を書ける域には達しない」(127ページ)といい、これを「I/O比」と呼ぶ。ある程度以上の水準のものを出したら、I/O比が1000ぐらいまでいかないと駄目だという。
SNSでよく「半年ROMってろ」と言われるのと同じだ。大人になっても、いや、大人になったからこそより一層、I/O比に留意したい。
立花さんは、フランスの生物学者でカトリック思想家のテイヤール・ド・シャルダンを紹介し、「この先どんどん進化を重ね、複雑性意識化の法則に従って、人間はより複雑な脳を持つ新しい世代に代わり、より高いステージの意識を持つようになる」(159ページ)という。これを「オメガポイント」と呼び、シャルダンはキリストの再臨と捉えている。ここで『ヨハネの黙示録』を引用し、「この世の終わりがくる前に『自分こそは再臨したキリストである』と名乗るアンチ・キリストが出現してきて世を惑わせる」(163ページ)が現代に重なっていると指摘する。
私は、少なくとも直近千年間の歴史を見ると、人類の意識・思考はそれほど変わっていないように感じる。おそらく、ホモ・サピエンスがアフリカを出発したときから、認知能力はほとんど向上していないのだろう。だが、いや、だからこそ逆に、人々をオメガポイントに導くと欺くアンチ・キリストが、既存メディアやネットにフェイクニュースを流しているのではないだろうか。
拡声器で話す男性のイラスト(真剣)
デカルトの『方法序説』には――1.明証性の原理 2.問題を分割して分析せよ 3.分割分析の結果を総合せよ 4.枚挙の規則――の4つの原理が記されているが、立花さんは、このうち明証性の原理が杜撰に使われ、知的世界が退廃していると指摘する。たとえばマルクス主義者は歴史が階級闘争であることは自明だと主張するが、マルクス主義を信じない人々にとっては自明でもなんでもない。つまり、自分の主張の正しさを厳密な証明なしで済ませ、「○○であることは、誰の目にも明らかな真実だ」というのは明らかな手抜きで、何の役にも立たない。
立花さんは歴史を遡り、「ドイツ=神聖ローマ帝国」と指摘する。ヨーロッパが極端な地方分権の考え方を持つのは、神聖ローマ帝国皇帝が諸侯による選挙で選ばれたことに由来すると指摘する。
われわれは、とくに近世・近代史を軽く見すぎていると思う。立花さんは、「このままいくと、この先も、基本的な歴史や政治史、軍事史の知識が欠けた人たちが政治をやるという状況が続くでしょう。『いやあ、困った困った』としか言いようがありませんね」(252ページ)と嘆息する。
(2021年11月27日 読了)

参考サイト

(この項おわり)
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