金沢城の石垣と三御門

2015年10月2日 撮影
金沢城公園 - 金沢城
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石川門 - 金沢城
金沢城(石川県金沢市丸の内1番1号)は、天正11年(1583年)、前田利家 (まえだとしいえ) により本格的な建城が行われ、明治に入るまで加賀百万石のシンボルであった。城跡は整備され、1996年(平成8年)より金沢城公園として一般に公開されている。

写真の石川門兼六園に向いており、金沢城の裏口にあたる。天明8年(1788年)に再建された。国の重要文化財に指定されている。
夜間はライトアップされる。
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石川門 - 金沢城
高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階建ての石川櫓が複雑な並びを成し、敵が侵入してきたときに進軍の勢いを鈍らせる目的で設けられた枡形門である。
白く見える屋根瓦には鉛を使用しており、有事の際には解かして鉄砲弾に作り替えることができたと言われている。

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石川門 - 金沢城
内側から二の門を見ると、立派な木造の梁を見ることができる。

2006年(平成18年)から2013年にかけ保存修理が行われた。
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石川門 - 金沢城
一の門を入ると、石垣が見える。
外から入ると、正面が切り込みハギ積み、左側は打ち込みハギになっている。
この石垣は明和2年(1765年)の改修時のものであるが、左右で積み方が異なるのは奇妙である。

一般には切り込みハギの方が新しい技法で、石が隙間なく積まれているだけでなく、表面もノミで削って平らにしてある。これは、石垣本来の機能には関係のない装飾である。切込ハギは権威の象徴でもある。
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橋爪門 - 金沢城
天守閣を持たない金沢城では、二の丸が政治の中枢を担っていた。この二の丸の正門が橋爪門である。高麗門形式の一の門、石垣と二重堀で囲まれた枡形、櫓門の二の門から成る。
また、橋爪門続櫓は、 三の丸広場から橋爪橋を渡り橋爪門を通って二の丸へ向かう人々を監視するための施設だった。

石川門河北門とともに「三御門」と呼ばれる。
1881年(明治14年)に焼失したが、2001年(平成13年)から2015年にかけ、文化6年(1809年)に再建された際の姿で復元された。金沢城内で最も格式の高い門である。
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橋爪門 - 金沢城
橋爪門は、柱と梁などの接合部分に釘などの金物を用いない、日本古来の木造軸組工法を用いている。再建に際しては全て国内産材を用い、うち半数に能登ヒバや杉等の石川県産の木材が使われている。
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金沢城
この地は加賀一向一揆の拠点で、浄土真宗の寺院である尾山御坊 (おやまごぼう) であった。寺とはいえ、石垣をめぐらせた要塞のようなものであった。
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織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により討たれると、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。
利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。

交通アクセス

【鉄道+バス】
  • 金沢駅前バス乗り場の東口3番、西口5番で乗車(約13分)「兼六園下・金沢城」バス停下車後、徒歩2分
  • レトロバス「城下まち金沢周遊」号
【自動車】
  • 北陸自動車道「金沢西I.C.」から約30分
  • 北陸自動車道「金沢東I.C.」から約30分
  • 北陸自動車道「金沢森本I.C.」から約20分
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出発地の最寄駅:

目的地:金沢城

参考サイト

金沢城 関連

近隣の情報

(この項おわり)
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