墨俣一夜城は一夜にして築けたか

2024年8月11日 撮影
大垣市墨俣歴史資料館 - 墨俣一夜城
大垣市墨俣歴史資料館
1566年(永禄9年)、織田信長による美濃攻略にあたり、木下藤吉郎 (きのした とうきちろう) (のちの豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城 (すのまたいちやじょう) の城跡に、1991年(平成3年)4月に大垣市墨俣歴史資料館(岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1)がオープンした。
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大垣市墨俣歴史資料館 - 墨俣一夜城
大垣市墨俣歴史資料館
墨俣歴史資料館は鉄筋コンクリート5階建てで、金の鯱をいただく天守閣は大垣城の天守を模しており、墨俣一夜城とは似ても似つかない建物である。実際の墨俣城は、簡易な砦と柵で構成されていたと考えられている。
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大垣市墨俣歴史資料館 - 墨俣一夜城
大垣市墨俣歴史資料館
犀川に架かる太閤出世橋を渡ると、秀吉の像が待ち構えている。

信長は、美濃の戦国大名・斎藤龍興 (さいとう たつおき) 斎藤道三の孫)を攻略するにあたり、佐久間信盛 (さくまのぶもり) に敵地・墨俣に砦作りを命じる。しかし、5,000人の兵を率いた信盛は、2ヶ月かけ、あとわずかで完成というときに斎藤軍に襲われ失敗。つづく柴田勝家 (しばた かついえ) も、着工2ヶ月後に敵襲を受け失敗。
そして、30歳だった秀吉に番が回ってきた。秀吉は短期かつ隠密裏に工事をするのが大前提として、500人の兵を率いて7日間で砦を築いた(一夜城ではない)。
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太閤秀吉 出世の泉 - 墨俣一夜城
太閤秀吉 出世の泉
この砦を足がかりにして、信長は1567年(永禄10年)に龍興の居城・稲葉山城を落とす。功労者の秀吉は墨俣城の城主となり、出世街道を駆け上っていく。
太閤出世橋を渡ると、瓢箪から水が湧き出る出世の泉がある。
太閤秀吉 出世の泉 - 墨俣一夜城の大きな写真大きな写真
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願かけ出世瓢箪 - 墨俣一夜城
願かけ出世瓢箪
その隣には、願かけ出世瓢箪が並ぶ。出世瓢箪は墨俣歴史資料館の中で販売しており、願い事を書いて、ここに結びつけよう。
願かけ出世瓢箪 - 墨俣一夜城の大きな写真大きな写真
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開花標本木 - 墨俣一夜城
開花標本木
桜の名所でもあり、願かけ出世瓢箪と並んで桜の開花標本木がある。
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墨俣一夜城
墨俣一夜城
秀吉は、墨俣に砦を築くにあたり、入念な準備を進めていた。

まず、斎藤道三に仕えていた野武士の蜂須賀小六 (はちすか ころく) を味方に付けた。小六は、犬山方面で木を伐採し、木曽川に流した。途中、製材をしながら運び、墨俣で拾い上げた。また、必要な部材も途中で作って墨俣へ運んだ。

斎藤軍は、過去2回の経験から、完成間近になって砦を壊しに行けば良いと考えていたが、材木が搬入されはじめると今までにないスピードで砦が出来上がっていった。驚いた斎藤軍は1万の兵をもって攻め寄せたが、すでに木柵が完成しており、思うように砦に近づくことができない。
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千成瓢箪 - 墨俣一夜城
千成瓢箪
そうこうしているうちに織田軍の本隊が現れ、斎藤軍は稲葉山城へ退却を余儀なくされた。

稲葉山城攻略に参加した秀吉は、軍師・竹中半兵衛の進言により裏門から奇襲攻撃を行い、瓢箪を棒の先に掲げて振り、これを合図に攻撃を開始したという。この作戦は成功し、織田信長から秀吉は馬印を許された。秀吉は「一勝毎に一を加え以て千と成さん」として、千成瓢箪を旗印にした。
墨俣歴史資料館に入ると、千成瓢箪が展示されている。

ただし、墨俣一夜城にしても千成瓢箪にしても、織田家の正史である『信長公記』に記述がないことなどから、確実なところは分かっていない。
千成瓢箪 - 墨俣一夜城の大きな写真大きな写真
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墨俣歴史資料館 - 墨俣一夜城
墨俣歴史資料館
墨俣歴史資料館の中には、さまざまな資料が展示されている。墨俣一夜城の築き方について、模型や映像を使った解説がある。
前述のように、切り出した材木を製材しながら木曽川を流し、墨俣で拾い上げた。
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墨俣歴史資料館 - 墨俣一夜城
墨俣歴史資料館
墨俣一夜城の模型。
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犀川 - 墨俣一夜城
犀川
墨俣歴史資料館の5階が展望台になっている。
墨俣は、尾張と美濃を隔てる境川、下流が尾張川とも呼ばれた長良川、犀川、五六川など様々な河川が合流する。
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長良川・天王川 - 墨俣一夜城
長良川・天王川
信長の時代には鎌倉街道が、近世には美濃路が通り、宿もあって、京への上り下りには通過する交通の要衝だった。
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稲葉山城
稲葉山城
金華山 (きんかざん) の頂きにある稲葉山城を撮ることができた。斎藤氏の居城として難攻不落を誇っていたが、前述の通り、信長軍によって落城。その後、信長が城主になり岐阜城に改名。関ヶ原の戦いでは西軍の織田秀信が立て籠もったが、東軍に攻め入られ落城。
稲葉山城の大きな写真大きな写真
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ソーラーアーク
ソーラーアーク
東海道新幹線「岐阜羽島駅」を出てすぐ目に入るソーラーアークを撮ることができた。2001年(平成13年)12月に三洋電機岐阜事業所に竣工した太陽光発電施設だが、2011年(平成23年)にパナソニックグループのものとなり、2022年(令和4年)には土地ごと大阪の不動産会社に売却された。家電メーカーは、まさに戦国時代である。
ソーラーアークの大きな写真大きな写真
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 - 墨俣一夜城
1995年(平成7年)4月27日に皇太子・皇太子妃両殿下(現在の天皇・皇后両陛下)が訪問された。

織田信長亡き後、徳川家康と小牧・長久手の戦いが勃発した1584年(天正12年)4月、秀吉は墨俣一夜城の改修を命じた。これが歴史上に登場する最後の改修となった。
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交通アクセス

【バス】
  • JR大垣駅南口2番のりばから発車の名阪近鉄バス岐阜聖徳学園大学行きに乗車、「墨俣」で下車、徒歩12分
  • JR岐阜駅6番のりば、名鉄岐阜駅1番のりばから発車の岐阜バス墨俣行きに乗車、終点「墨俣」で下車、徒歩12分
【自動車】
  • 名神高速道路「安八スマートインターチェンジ」から15分
  • 名神高速道路「岐阜羽島インターチェンジ」から20分
墨俣一夜城 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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