長久手古戦場は小牧・長久手の戦いの主戦場

2024年8月10日 撮影
長久手古戦場
長久手古戦場
1584年(天正12年)3月から11月にかけ、羽柴秀吉 (はしば ひでよし) 軍と徳川家康織田信雄 (おだ のぶかつ) 連合軍の間で小牧・長久手の戦いが勃発した。これは、秀吉と家康が直接衝突した唯一の戦いである。主戦場は国の史跡に指定されており、古戦場公園(愛知県長久手市武蔵塚204)として整備されている。

2024年(令和6年)1月16日から再整備工事がはじまり、ガイダンス施設などが建設される計画だ。工事期間中は駐車場などが利用できなくなるので、事前にアクセス方法を確認しておこう。
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勝入塚 - 長久手古戦場
勝入塚
勝入塚 (しょうにゅうづか) は、織田家の重臣で秀吉に仕えた池田恒興 (いけだ つねおき) が戦死した場所とされる。恒興は1580年(天正8年)に出家し、勝入斎と名乗っていたことが塚の名の由来となっている。
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勝入塚 - 長久手古戦場
勝入塚
戦いの中、恒興は秀吉に、家康の本拠地がある岡崎城を攻める事を進言し、自ら兵を率いて出陣した。
しかし、途中にある岩崎城を攻めるのに手間取り、家康軍本体に追いつかれ、4月9日に仏が根 (ほとけがね) で戦死した。
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長久手の棒の手 - 長久手古戦場
長久手の棒の手
秀吉は岡崎侵攻隊の敗戦を知り、すぐに救援に向かうが、すでに家康は小牧城まで戻っており、為す術がなかった。5月に入り、秀吉は、伊勢国(現在の三重県)へ転進し、信雄を攻めた。秀吉と信雄は11月に和睦したため、家康は秀吉と戦う大義を失ったため、領国である三河国へ引き上げた。

棒の手は、愛知県下において広く伝承されている農民武芸である。写真は、長久手郷土資料室の前にある石碑。
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長久手郷土資料室 - 長久手古戦場
長久手郷土資料室
園内には、長久手合戦400年を記念して1985年(昭和60年)にオープンした入場無料の長久手郷土資料室があり、合戦の様子や民俗資料などが展示されている。残念ながら閉館時間を過ぎており、見学はかなわなかった。
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長久手古戦場駅
長久手古戦場駅
最寄駅は、リニモ「長久手古戦場駅」。イオンモール長久手に直結している。
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交通アクセス

【鉄道】
  • リニモ「長久手古戦場駅」下車、徒歩約3分
行き方ナビ
出発地の最寄駅:

目的地:長久手古戦場
小牧・長久手の戦い 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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