ハンムラビ法典は、完全な形で現在に伝わっている世界で2番目に古い法典である。
1901年、イランのスサで発見された玄武岩製の石碑(高さ2.25m、幅0.65m)は、法典の写本で、バビロンのマルドゥク神殿に置かれ、楔形文字の基本になったとされている。現在、パリのルーブル美術館が所蔵している。
「目には目を、歯には歯を」(196条・197条)が有名だが、犯罪に対して厳罰を処するものではなく、社会正義の確立するために、報復合戦を止め、犯罪に対応する刑罰の限界を定める罪刑法定主義の始祖とみなされている。
1901年、イランのスサで発見された玄武岩製の石碑(高さ2.25m、幅0.65m)は、法典の写本で、バビロンのマルドゥク神殿に置かれ、楔形文字の基本になったとされている。現在、パリのルーブル美術館が所蔵している。
「目には目を、歯には歯を」(196条・197条)が有名だが、犯罪に対して厳罰を処するものではなく、社会正義の確立するために、報復合戦を止め、犯罪に対応する刑罰の限界を定める罪刑法定主義の始祖とみなされている。
文字の誕生
この時代の世界
(この項おわり)
弱小の都市国家バビロニアは、ハンムラビの卓越した外交・軍事手腕によって、周辺諸国を飲み込み、メソポタミアの再統一を果たした。
ハンムラビ王は1750年に他界するまで王位に留まり、官僚と軍隊を整備し、駅伝制や灌漑用水路の建設を行い、交易・商業を保護し、バビロン第1王朝は全盛期を迎えた。
ハンムラビ王の治世に定められたのが、全282条からなるハンムラビ法典である。