
紀元前10世紀頃、士師として古代イスラエルを指導していたサムエルは、王政を求める民の声を受け、神の言葉を聞いた。このとき選ばれたのがベニヤ民族のサウルである。
サウルはイスラエルの王として、ペリシテ人や周辺民族と勇敢に戦ったが、「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」という神の命令に従わなかった。
サムエルはサウルを見捨て、再び神の言葉を聞き、紀元前1000年頃、エッサイの子ダビデに油を注いだ。

ダビデは、ペリシテ人最強の戦士ゴリアテを下し、領土を拡大し、民衆の支持を集めた。
これを妬んだサウルは、ペリシテ人を率いて何度もダビデに挑むが、ことごとく敗れ去った。そしてダビデは、サウルの娘ミカルをめとった。
サウルと息子ヨナタンがペリシテ人に追われ自害すると、ダビデはユダの王として即位した。
ダビデは、サウルの後を継いだ息子イシュ・ボシェトの軍勢を破り、エルサレムに都を置き、全イスラエルの王となった。

ダビデが晩年、家臣の妻であるバト・シェバとの間に儲けた2人目の息子がソロモンである。
ダビデの死後、ソロモンは王位継承者を次々に倒し、紀元前971年頃、イスラエル王国の第3代の王となった。

あるとき、神がソロモンの夢枕に立ち「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンは知恵を求めた。このことからソロモンは知恵者のシンボルとなった。
ソロモンはダビデとは反対に内政を重視し、外交や交易によって富を増やし、統治機構としての官僚制を導入した。ファラオの娘を娶ったのも、その一環である。
こうしてイスラエル王国の領土は拡大し、フェニキアの技術を導入してダビデが為しえなかったエルサレム神殿(第一神殿)を建設した。

だが、国の繁栄は富の偏在をもたらし、ソロモンの死後、イスラエル王国は北のイスラエル王国と、南のユダ王国に分裂してしまう。
サウルはイスラエルの王として、ペリシテ人や周辺民族と勇敢に戦ったが、「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」という神の命令に従わなかった。
サムエルはサウルを見捨て、再び神の言葉を聞き、紀元前1000年頃、エッサイの子ダビデに油を注いだ。

ダビデは、ペリシテ人最強の戦士ゴリアテを下し、領土を拡大し、民衆の支持を集めた。
これを妬んだサウルは、ペリシテ人を率いて何度もダビデに挑むが、ことごとく敗れ去った。そしてダビデは、サウルの娘ミカルをめとった。
サウルと息子ヨナタンがペリシテ人に追われ自害すると、ダビデはユダの王として即位した。
ダビデは、サウルの後を継いだ息子イシュ・ボシェトの軍勢を破り、エルサレムに都を置き、全イスラエルの王となった。

ダビデが晩年、家臣の妻であるバト・シェバとの間に儲けた2人目の息子がソロモンである。
ダビデの死後、ソロモンは王位継承者を次々に倒し、紀元前971年頃、イスラエル王国の第3代の王となった。

あるとき、神がソロモンの夢枕に立ち「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンは知恵を求めた。このことからソロモンは知恵者のシンボルとなった。
ソロモンはダビデとは反対に内政を重視し、外交や交易によって富を増やし、統治機構としての官僚制を導入した。ファラオの娘を娶ったのも、その一環である。
こうしてイスラエル王国の領土は拡大し、フェニキアの技術を導入してダビデが為しえなかったエルサレム神殿(第一神殿)を建設した。

だが、国の繁栄は富の偏在をもたらし、ソロモンの死後、イスラエル王国は北のイスラエル王国と、南のユダ王国に分裂してしまう。
エルサレム3千年史
年 | できごと |
---|---|
B.C.950年頃 | 第一神殿の建設(ソロモン王) |
B.C.586年 | バビロン捕囚(ネブカドネザル王) |
B.C.515年 | 第二神殿の建設 |
B.C.20年 | 第三神殿の建設(ヘロデ大王) |
28年頃 | イエス・キリストの処刑 |
70年 | エルサレム包囲戦(アグリッパ2世)→嘆きの壁 |
313年 | ミラノ勅令(コンスタンティヌス1世) |
320年頃 | 聖ヘレナの巡礼→聖墳墓教会 |
619年 | ムハンマドが天使に導かれエルサレムを訪問→岩のドーム |
638年 | イスラムによるエルサレム征服 |
1099年 | 第1回十字軍がエルサレム王国を建国 |
1187年 | アイユーブ朝がエルサレムを奪還 |
1922年 | オスマン帝国の崩壊により、イギリス委任統治領パレスチナ成立(首都エルサレム) |
1947年 | イスラエルが独立宣言 |
参考書籍
参考サイト
- 関西ユダヤ教団は国内に2つしかないシナゴーグのひとつ:ぱふぅ家のホームページ
この時代の世界
(この項おわり)
エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘と結婚することで安全保障を確保、初めてエルサレム神殿を築くなど、イスラエル王国の最盛期を築いた。