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コンピュータが連れてきた子どもたち | ||
著者 | 戸塚滝登 | ||
出版社 | 小学館 | ||
サイズ | 単行本 |
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発売日 | 2005年12月20日頃 | ||
価格 | 1,650円(税込) | ||
ISBN | 9784098400980 |
お気づきになったかもしれません。“アトムと子どもパラドックス”が示していることは、インターネットの本質が私たちの誰もが思いこんでいるようなものでは決してないということに。(55ページ)
概要

子どもが小学校でパソコンの授業を受けている。パソコンで手紙をつくったり、ポスターをつくったり‥‥それはそれで必要なことかもしれないが、何か、どこかがおかしい。われわれが小学生の時に少しだけ習った算盤のように、卒業したら役に立たないものになってしまうのではないだろうか。

著者の戸塚滝登さんは私より一回り年長の、日本のコンピュータ教育のパイオニアであり、私と同じ危惧を抱いているようだ。

著者の戸塚滝登さんは私より一回り年長の、日本のコンピュータ教育のパイオニアであり、私と同じ危惧を抱いているようだ。
とくにインターネット教育がおかしい。パソコン通信黎明期からネットを利用している私たちにとって、いまのインターネット教育は変なのだ。ネットを知らない老人たちが教育プログラムを組み立てているとしか思えない。筆者も同じような指摘を進める。

前半で「アトム大使」(鉄腕アトムの原型となった手塚治虫の漫画)の話が出てくる。著者は、「私たちが日々子どもたちに行っている。“教育”つまり、スピードと正確さ、記憶量と拡大再生産できる能力を育てる教育は、実は人間の子どもたちをアトムに育てあげようとする教育と見分けがつかない」(55ページ)と指摘する。そして、インターネットが人と「ロボットたちの神経系として使われるための(人間たちどうしではなく)道具と道具、ロボットとロボットを結びあうためのネルトワークだと考えた方がより正確」だと主張する。

このあと、一時期ブームとなった人工知能や脳科学(いまでも養老先生の本が出るとベストセラーになる)の分野の話が続く。
中盤では、「なぜ教育機器は教室に定着できないのだろうか?」(108ページ)という疑問を発する。ラジオ、スライド、16ミリ映写機、テープレコーダー、ティーチングマシン、OHP……一度は教壇に登場したものの、準備室の奥深くで埃を被っている機会は枚挙にいとまがないところである。筆者は、ここから、学校と教育がイコールでないことを述べていく。その通りである。
私は小学生の頃、テープレコーダーやビデオに出会ったクチである。体育の授業のとき、ビデオで自分の床運動を撮影してフォームを直したことがあるが、きれいに前転ができるようになったということより、ビデオカメラを操作した記憶の方が強く脳裏に焼き付いている。その影響で、いまではデジタル編集をするバリバリのビデオ・パパだ。子どもの徒競走のフォームを撮影し、スロー再生して見せたりする。これなどは、小学校の体育の授業が期待している結果とはまったく違う見本である。

最後に筆者のアドバイスとして、子どもが10歳になるまでインターネットを使わせないように、と締めくくられる。残念ながら、私はこれには従えない。本書の後半のどこかで、筆者の主張と私の考え方にギャップが出てきてしまったようだ。
ただ、筆者の言わんとしていることはわかる。ネットの海で溺れない自信がなければ、子どもにインターネットを与えるべきではない。

前半で「アトム大使」(鉄腕アトムの原型となった手塚治虫の漫画)の話が出てくる。著者は、「私たちが日々子どもたちに行っている。“教育”つまり、スピードと正確さ、記憶量と拡大再生産できる能力を育てる教育は、実は人間の子どもたちをアトムに育てあげようとする教育と見分けがつかない」(55ページ)と指摘する。そして、インターネットが人と「ロボットたちの神経系として使われるための(人間たちどうしではなく)道具と道具、ロボットとロボットを結びあうためのネルトワークだと考えた方がより正確」だと主張する。

このあと、一時期ブームとなった人工知能や脳科学(いまでも養老先生の本が出るとベストセラーになる)の分野の話が続く。
中盤では、「なぜ教育機器は教室に定着できないのだろうか?」(108ページ)という疑問を発する。ラジオ、スライド、16ミリ映写機、テープレコーダー、ティーチングマシン、OHP……一度は教壇に登場したものの、準備室の奥深くで埃を被っている機会は枚挙にいとまがないところである。筆者は、ここから、学校と教育がイコールでないことを述べていく。その通りである。
私は小学生の頃、テープレコーダーやビデオに出会ったクチである。体育の授業のとき、ビデオで自分の床運動を撮影してフォームを直したことがあるが、きれいに前転ができるようになったということより、ビデオカメラを操作した記憶の方が強く脳裏に焼き付いている。その影響で、いまではデジタル編集をするバリバリのビデオ・パパだ。子どもの徒競走のフォームを撮影し、スロー再生して見せたりする。これなどは、小学校の体育の授業が期待している結果とはまったく違う見本である。

最後に筆者のアドバイスとして、子どもが10歳になるまでインターネットを使わせないように、と締めくくられる。残念ながら、私はこれには従えない。本書の後半のどこかで、筆者の主張と私の考え方にギャップが出てきてしまったようだ。
ただ、筆者の言わんとしていることはわかる。ネットの海で溺れない自信がなければ、子どもにインターネットを与えるべきではない。
(2006年4月25日 読了)
参考サイト
- 『ウェブ進化論』――丸ごと理解するには:ぱふぅ家のホームページ
- 『ネットvs.リアルの衝突』――さまざまな対立構造:ぱふぅ家のホームページ
- 『思春期の危機をどう見るか』:ぱふぅ家のホームページ
- 『ネットの炎上力』――J-CASTの発行人が書いた:ぱふぅ家のホームページ
- 『ウェブはバカと暇人のもの』――ネットは道具に過ぎない:ぱふぅ家のホームページ
- 『見通す力』――価値ある情報をつかみ、今後を予測する:ぱふぅ家のホームページ
- 『GIGAZINE未来への暴言』――失望するにはまだ早い:ぱふぅ家のホームページ
- 『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』:ぱふぅ家のホームページ
(この項おわり)