鴨川の三条大橋は東海道五十三次の終点

2015年9月15日 撮影
鴨川
鴨川は、桟敷ケ岳付近を源とし桂川の合流点に至るまで京都市内の南北を流れる約33kmの淀川水系の一級河川だ。

古代においては、賀茂氏の支配地域が鴨川上流だった。上賀茂神社、下鴨神社はその氏神を祀っている。
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平安時代においては、平安京の東端が鴨川になる。
風水の四神相応 (しじんそうおう) にもとづき、北の船岡山・鞍馬山を玄武、西の嵐山を白虎、南にあった巨椋池 (おぐらいけ) を朱雀、そして東の鴨川を青龍に見立てたといわれている。

『平家物語』には、白河法皇が自らの意に沿わないものとして「賀茂河の水、双六の賽、山法師」と嘆いたという話が載っている。
鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川で、その勾配が急であることと、河川敷に市街地が発展したことなどが水害被害を大きくしている。
1935年(昭和10年)6月29日の水害では、死者12名、負傷者71名、家屋の全半壊482戸、37.2平方kmが浸水するという被害を出した。1947年(昭和22年)に改良工事が完了するも、1951年(昭和26年)の大雨で上賀茂地区・山端地区が浸水、岩倉地区が水没した。
鴨川
江戸時代に入ると、京都市街に隣接する河原が歓楽地となり、多くの芸人が集まるようになった。歌舞伎の創始者とされる出雲阿国 (いずものおくに) もいたとされている。
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現在、二条大橋から五条大橋にかけて、西岸にある料理店や茶屋では、毎年5月から9月頃に河原に張り出した木組みの床「納涼床 (のうりょうゆか) 」を設置し、屋外で川のよく見える位置に座敷を作り、料理を提供する。
鴨川
琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた琵琶湖疏水 (びわこそすい) が、京阪電鉄・神宮丸太町駅の南で鴨川に注ぐ。1890年(明治23年)に完成した。
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1979年(昭和54年)には暗渠化の工事が始まったが、石油ショックの影響で工事は遅れ、1987年(昭和62年)に京阪本線が地下化され、1988年(昭和63年)に川端通が開通した。
1996年(平成8年)に国の史跡に指定された。
鴨川
三条大橋は、東海道五十三次の終点である。弥次さんと喜多さんの像がある。
橋が架けられた時期は明らかではないが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が石柱の橋に改修する工事を行っている。このときの銘入り擬宝珠が残り、木造欄干とともに威容を誇っている。
現在の橋は、1950年(昭和25年)に建造された。
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三条大橋のある河原は三条河原と呼ばた処刑場で、石川五右衛門、豊臣秀次、石田三成、近藤勇などが処刑された。
高瀬川
鴨川の西側に併走するように、高瀬川 (たかせがわ) が流れている。二条大橋の南で鴨川から分かれ、十条通の上流で再び鴨川に合流する。江戸時代初めの1611年(慶長16年)、角倉了以 (すみのくらりょうい) 素庵 (そあん) 親子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。

三条から四条にかけては京都の歓楽街のひとつとなっており、森鴎外の『高瀬舟』の舞台として有名だ。また桜の名所でもある。国の史跡に指定されている。
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目的地:琵琶湖疎水

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(この項おわり)
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