DF50形ディーゼル機関車は非電化区間の無煙化に貢献

DD51形が登場するまでの中継ぎ
新幹線0系電車とDF50形ディーゼル機関車
2018年12月28日 四国鉄道文化館 写真:こぱふぅ
DF50形ディーゼル機関車は、北陸本線に投入された DD50形の改良版として計画され、1957年(昭和32年)試作車が製造された。その後、非電化区間の無煙化を目的に、1963年(昭和38年)までに138両が製造された。
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本格的な液体変速機が開発されていなかったため、ディーゼルエンジンで発電機を回し、その電力でモーターを駆動させる電気式ディーゼル機関車である。
線路等級の低い亜幹線で利用するため、軸重を14トン以下に抑えるため、機関出力は1060PSに抑えられた。

しかし、高速性能ではC57蒸気機関車相当、牽引力では D51蒸気機関車相当にとどまり、当時の技術ではこの重量でこれ以上の出力のエンジンを搭載することはできなかった。また、エンジンの海外メーカーの部品の使っていることから製造コストも高くついた。
1962年(昭和37年)、純国産で大出力の DD51形が登場すると、DF50形は生産終了となった。
最後まで運用していた四国でも、1981年(昭和56年)10月に定期旅客運用が終了、1982年(昭和57年)9月には貨物運用も終了した。1985年(昭和60年)1月、3両の保存機を除いて廃車となった。
1983年(昭和58年)9月25日に運行した臨時急行列車「サヨナラDF50土佐路号」を牽引した重連機関車のうちの1両 DF50 1四国鉄道文化館で保存、展示されている。

愛媛県新居郡中村(現在の新居浜市)に産まれた十河信二 (とごう しんじ) は、大学を卒業すると鉄道院に入庁し、後藤新平 (ごとう しんぺい) の薫陶を受けた。鉄道視察のために1年間アメリカに留学し、後藤とともに関東大震災の復興事業に関わるが、贈収賄疑惑に巻き込まれて逮捕され、無罪となるも退官することを余儀なくされた。その後、南満洲鉄道の理事となり、戦後に愛媛県に戻り、西条市長に当選した。
国鉄の行く末を信牌していた十河は、1955年(昭和30年)に第4代国鉄総裁の任を引き受け、その任期中に DF50形が完成。新幹線建設のための資金集めに奔走したことから、「新幹線の父」と呼ばれるようになった。
西条市にある四国鉄道文化館には、DF50形と並んで、初代新幹線車車両 0系が並んでいる。
DF50形 関連
(この項おわり)
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