熊本城は日本三名城のひとつ

2016年3月19日 撮影
熊本城
熊本城(熊本県熊本市中央区本丸1-1)は、加藤清正が7年の歳月をかけて1607年(慶長12年)に完成した平山城である。
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熊本城
清正流 (せいしょうりゅう) と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、日本三名城のひとつとして評価が高い。熊本のシンボルでもある。
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熊本城
熊本城公園は日本さくら名所100選に選ばれている。

1632年(寛永9年)、細川氏の居城になってからも改築が続き、明治時代初頭までには大半の建物が撤去されずにあったが、西南戦争で西郷軍の攻略目標となり、一部の建物を残して焼失してしまった。石垣そのものは、1889年(明治22年)の熊本自身で一部が崩落したほかは、ほぼ江戸時代の姿をとどめており、城跡は特別史跡に指定されている。
宇土櫓 - 熊本城
宇土櫓 (うとやぐら) は、本丸の西北隅にあり、20メートルの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19メートルの櫓で、天守並みの大きさを誇る。国指定の重要文化財。
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飯田丸五階櫓 - 熊本城
飯田丸五階櫓 (いいだまるごかいやぐら) は、飯田丸の南西隅にあった櫓だ。西南戦争前に陸軍により破壊されたが、2005年(平成17年)に復元された。
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外観3層内部5階建ての櫓で、延べ床面積503平方メートル、石垣からの高さ14.3メートルで天守級の規模を誇る。
飯田丸の名称は、加藤清正の重臣、飯田覚兵衛 (いいだかくべえ) が管理していたことから。
熊本城
熊本城の石垣は、始めは緩やかな勾配だが、上部に行くにしたがって垂直に近くなる。これを「武者返し」と読んでおり、
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加藤清正 - 熊本城
加藤清正は、朝鮮出兵の差異の籠城戦で水に苦労したことから、熊本城内には120箇所もの井戸を掘った。どの井戸も水量が豊かであり、西南戦争で官軍が籠城した際にも利用された。
大銀杏 - 熊本城
熊本城は、別名を銀杏城という。これは、籠城戦になったときに食料確保のため、加藤清正が植えたという大銀杏に由来する。しかし、この大銀杏は雄木なので実はならず、城内を知らない者が後世につくった俗説と言われている。

熊本地震と復旧工事

2016年(平成28年)4月14日夜、熊本県を震源に強い地震が起きた。益城 (ましき) 町では震度7を記録した。熊本城でも天守閣の屋根瓦や鯱が落下し、石垣が崩れたりする被害が出た。危険なため、翌15日は閉園となった。
追い打ちをかけるように15日夜、マグニチュード7.3の本震が発生し、東側にある東十八間櫓と北十八間櫓が倒壊した。2つの櫓はともに、国の重要文化財に指定されている。

1960年(昭和35年)に再建された天守閣は鉄筋コンクリート製で重要文化財でもないため、耐震補強やバリアフリー化も併せて工事を実施し、2021年(令和3年)3月24日に完了した。4月26日から一般公開を再開した。
しかし、櫓や石垣などの重要文化財建造物は、解体して取り出した瓦や柱などを可能な限り使って元通りにしなければならない。熊本城全体の復旧が完了するのは2037年度だ。

交通アクセス

【鉄道】
  • 熊本城・市役所前電停より徒歩3分
【バス】
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熊本城 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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