

田中角栄
この像は1985年(昭和60年)10月に完成した。田中角栄が脳梗塞で倒れた7ヶ月後のことだった。越山会の幹部でつくる田中角栄先生銅像建設期成会が、その功績をたたえ、さらなる尽力を願い、魚沼地区で一般家庭などからも資金を集めをしたという。

田中角栄は、1918年(大正7年)5月4日、新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)で、農家の7人兄弟の次男として生まれた。1933年(昭和8年)、二田高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。1934年(昭和9年)3月、上京し、井上工業に住み込みで働きながら、中央工学校土木科の夜間部に通った。1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、翌年、独立して共栄建築事務所を設立。仕事のかたわら錦城商業学校にも籍を置き、商事実務を学んだ。こうした努力が実を結び、のちに「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれるようになる。
1938年(昭和13年)に徴兵され、翌年、満州で兵役に就く。1年で陸軍騎兵上等兵になるが、肺炎を発症し、1941年(昭和16年)10月に除隊。東京に田中建築事務所を開く。1942年(昭和17年)10月に結婚。
1947年(昭和22年)4月、日本国憲法による最初の総選挙となった第23回総選挙で、新潟3区から民主党公認で立候補し、当選する。その後、民主自由党に入り、吉田茂に接近する。
1948年(昭和23年)11月、炭鉱国管疑獄により東京拘置所に収監。第24回総選挙は獄中選挙となったが、得票数を前回の2倍に増やし、再選を果たした。

田中角栄は国土開発に注力した。一議員でありながら多くの議員立法を提出し、池田勇人蔵相を説得し日本住宅公団を設立し、ガソリン税と道路特定財源として全国の道路網整備を可能とした。1962年(昭和37年)7月、池田勇人内閣の大蔵大臣に就任し、発言権は更に増した。
1969年(昭和44年)8月、大学管理法成立を働きかけ、大学紛争を収束に導いた。
また、中越自動車の株式取得を通じて東急に接近し、1972年(昭和47年)、全国に工業地帯を開発し、人の移動に新幹線網、物の移動に高速道路網を建設する『日本列島改造論』をぶち上げ、ついに総理にまで上り詰めた。
1972年(昭和47年)9月、中国を訪問し、周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談し、日中国交正常化を実現した。

しかし、1973年(昭和48年)10月、第四次中東戦争からオイルショックが発生し、景気は大きく後退した。翌1974年(昭和49年)10月、文藝春秋が立花隆の「田中角栄研究」を掲載し、田中金脈問題を追求。総理在任2年5ヵ月で退陣することとなる。
1976年(昭和51年)2月、ロッキード事件が発生し、田中角栄も逮捕される。
1983年(昭和58年)11月、上越新幹線が暫定開業。1985年(昭和60年)10月、関越自動車道が全通した。だが、同年2月27日、田中角栄は脳梗塞で倒れた。翌1986年(昭和61年)7月の総選挙でトップ当選を果たすものの、政治活動はできなくなっていた。1990年(平成2年)1月、政界を引退。
1993年(平成5年)12月16日、75歳で死去。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため、位階勲章は与えられなかった。

田中角栄は、1918年(大正7年)5月4日、新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)で、農家の7人兄弟の次男として生まれた。1933年(昭和8年)、二田高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。1934年(昭和9年)3月、上京し、井上工業に住み込みで働きながら、中央工学校土木科の夜間部に通った。1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、翌年、独立して共栄建築事務所を設立。仕事のかたわら錦城商業学校にも籍を置き、商事実務を学んだ。こうした努力が実を結び、のちに「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれるようになる。
1938年(昭和13年)に徴兵され、翌年、満州で兵役に就く。1年で陸軍騎兵上等兵になるが、肺炎を発症し、1941年(昭和16年)10月に除隊。東京に田中建築事務所を開く。1942年(昭和17年)10月に結婚。
1947年(昭和22年)4月、日本国憲法による最初の総選挙となった第23回総選挙で、新潟3区から民主党公認で立候補し、当選する。その後、民主自由党に入り、吉田茂に接近する。
1948年(昭和23年)11月、炭鉱国管疑獄により東京拘置所に収監。第24回総選挙は獄中選挙となったが、得票数を前回の2倍に増やし、再選を果たした。

田中角栄は国土開発に注力した。一議員でありながら多くの議員立法を提出し、池田勇人蔵相を説得し日本住宅公団を設立し、ガソリン税と道路特定財源として全国の道路網整備を可能とした。1962年(昭和37年)7月、池田勇人内閣の大蔵大臣に就任し、発言権は更に増した。
1969年(昭和44年)8月、大学管理法成立を働きかけ、大学紛争を収束に導いた。
また、中越自動車の株式取得を通じて東急に接近し、1972年(昭和47年)、全国に工業地帯を開発し、人の移動に新幹線網、物の移動に高速道路網を建設する『日本列島改造論』をぶち上げ、ついに総理にまで上り詰めた。
1972年(昭和47年)9月、中国を訪問し、周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談し、日中国交正常化を実現した。

しかし、1973年(昭和48年)10月、第四次中東戦争からオイルショックが発生し、景気は大きく後退した。翌1974年(昭和49年)10月、文藝春秋が立花隆の「田中角栄研究」を掲載し、田中金脈問題を追求。総理在任2年5ヵ月で退陣することとなる。
1976年(昭和51年)2月、ロッキード事件が発生し、田中角栄も逮捕される。
1983年(昭和58年)11月、上越新幹線が暫定開業。1985年(昭和60年)10月、関越自動車道が全通した。だが、同年2月27日、田中角栄は脳梗塞で倒れた。翌1986年(昭和61年)7月の総選挙でトップ当選を果たすものの、政治活動はできなくなっていた。1990年(平成2年)1月、政界を引退。
1993年(平成5年)12月16日、75歳で死去。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため、位階勲章は与えられなかった。
交通アクセス

近隣の情報
- 浦佐駅と田中角栄の像:ぱふぅ家のホームページ
- 上越国際スキー場は40年の歴史を誇る巨大ゲレンデ:ぱふぅ家のホームページ
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- 復興のみまもり岩、13年ぶりに綱を新調(2020年5月6日)
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- 棚田に映える満月、思わず息のむ(2017年6月15日)
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参考サイト
- 浦佐駅:JR東日本
- 政治駅の疑惑についてその1 浦佐駅:太郎の部屋
- 浦佐駅わき通過:Yuriko.Net 旅行記
- 新幹線の走るルートは誰が決める:HIPPO大野の雑記帳
参考書籍
![]() |
日本列島改造論 | ||
著者 | 田中角栄 | ||
出版社 | 日刊工業新聞社 | ||
サイズ | 単行本 | ||
発売日 | 1993年12月 | ||
価格 | 1,388円(税込) | ||
ISBN | 9784526034671 | ||
![]() |
小説吉田学校〈第4部〉金脈政変 | ||
著者 | 戸川猪佐武 | ||
出版社 | 学陽書房 | ||
サイズ | 文庫 | ||
発売日 | 2000年12月20日頃 | ||
価格 | 770円(税込) | ||
ISBN | 9784313751248 | ||
昭和四十七年七月、田中角栄“庶民宰相”誕生。日中国交回復を果たし、「日本列島改造」をスタート。日本国中好景気に浮かれるがオイルショックであえなくダウン。参議院選挙で自民党は大惨敗。田中の指導力が問われ党内抗争が再燃。さらに田中金脈問題が発覚し、世論は騒然となる。田中退陣を読んだ三木、福田、大平は対決の姿勢を強める。長老会議の全権を握る椎名副総裁の裁定が意外な方向へ…。 | |||
![]() |
鉄道と政治 | ||
著者 | 佐藤 信之 | ||
出版社 | 中央公論新社 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2021年04月20日頃 | ||
価格 | 1,034円(税込) | ||
ISBN | 9784121026408 | ||
かつて鉄道は、地方に近代化をもたらしてくれるものだった。「我田引鉄」と呼ばれようとも、政治家は血眼になって自らの票田に鉄道を引き込んだ。不自然な路線や駅の配置が各地に見られるのはその結果でもある。だが、鉄道を国に強請る時代は終わった。国と地方との関係が変わった今、リニア、都市交通などの整備はどうあるべきか。明治以来の政治家・政党と交通政策の変遷を概説し、これからを展望する。 | |||
![]() |
角栄に花束を | ||
著者 | 大和田秀樹 | ||
出版社 | 秋田書店 | ||
サイズ | コミック | ||
発売日 | 2020年05月20日 | ||
価格 | 759円(税込) | ||
ISBN | 9784253300018 | ||
(この項おわり)
1983年(昭和58年)9月に開業。1981年(昭和56年)11月、上越新幹線開業に備えて新駅舎が運用を開始。