足利学校は日本最古の学校

2021年10月16日・2025年4月26日 撮影
方丈 - 足利学校
方丈 2021年10月16日撮影
足利学校(栃木県足利市昌平町2338)は、日本で最も古い学校として知られている。国の史跡に指定されている。2015年(平成27年)に日本遺産になった。落雷で焼失した江戸時代の姿を1990年(平成2年)までに復元し、一般公開している。入場有料。
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足利学校全景
足利学校全景 2021年10月16日撮影
創建については諸説あり、最も古いものでは、奈良時代に創建されたというものがある。また、平安時代の貴族で小倉百人一首にも登場する小野篁 (おののたかむら) が839年(承和6年)に創設したという説もある。
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入徳門 - 足利学校
入徳門 2021年10月16日撮影
足利学校に入る最初の門が入徳門 (にゅうとくもん) だ。1831年(文政14年)の鑁阿寺 (ばんなじ) 安養院 (あんよういん) の火災により焼失したが、1840年(天保10年)頃に修築され、その後明治の中頃に裏門を移転修築したと伝えられている。
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入徳門 - 足利学校
入徳門 2025年4月26日撮影
扁額「入徳」は、紀伊徳川家第11代藩主・大納言徳川斎順 (とくがわなりゆき) (1801~1846)の書である。
入徳とは「徳に入る」、すなわち、道徳心を習得するところという意味で、それが足利学校に入学することを意味する。
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学校門 - 足利学校
学校門 2021年10月16日撮影
1668年(寛文8年)に建てられた学校門は、日本で唯一、「學校」の扁額が掲げられた門だ。
学校という言葉は孟子の中にある言葉で、仏教は寺院で学ぶものとして、教育内容から排除したことが足利学校の特徴だ。
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学校門 - 足利学校
学校門 2025年4月26日撮影
扁額は、明の書家・蔣竜渓 (しょうりゅうけい) の書を、江戸国士舘助教授・狛高庸 (こまたかやす) が縮小したものだ。

新朝の皇帝・王莽 (おうもう) (在位:紀元8~23年)が全国に設置した儒学の校舎「学」・「校」が学校の語源である。
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學校の扁額 - 足利学校
學校の扁額 2025年4月26日撮影
方丈に古い[學校:blu]の扁額が保管、展示されている。
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庠主の墓所 - 足利学校
庠主の墓所 2021年10月16日撮影
足利学校は室町前期には衰退するが、1432年(永享4年)、上杉憲実 (うえすぎ のりざね) が足利の領主となると、僧侶を招聘したり蔵書を寄贈するなどして再興した。
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茂木家累代の墓 - 足利学校
茂木家累代の墓 2021年10月16日撮影
庠主 (しょうしゅ) は、現代の学長に相当する。1872年(明治5年)には以降になるまでの430年間に23代の庠主が在任した。
庠主の墓所の隣には、足利学校代官の茂木家累代の墓がある。
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足利学校
足利学校 2025年4月26日撮影
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土蔵 - 足利学校
土蔵 2021年10月16日撮影
土蔵は、大切なものを格納する耐火建築である。桁行三間(5.4メートル)、梁間二間(3.6メートル)。外壁から屋根にかけて土で塗り固め、周囲は漆喰で仕上げてある。屋根は栗板を使った切妻造の (さや) 屋根を乗せている。内部は、壁が漆喰仕上げで、床が板敷きになっている。
宝暦年間(1751~1764年)の姿に復元したものである。
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木小屋 - 足利学校
木小屋 2021年10月16日撮影
木小屋は、薪や農具などの置き場のほか、漬物などの食料品を保管した建物である。

上杉憲実は、足利学校で教えるべき学問は三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選と定めた。易学、兵学、医学などの実学も教えていた。
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衆寮 - 足利学校
衆寮 2021年10月16日撮影
衆寮 (しゅりょう) は、僧侶や学生が暮らす寮である。桁行八間(10.8メートル)、梁間二間半(4.5メートル)という大きな建物で、屋根は切妻造で板葺き、外壁は上が土壁の漆喰仕上げ、下が板張りになっている。
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衆寮 - 足利学校
衆寮 2025年4月26日撮影
内部は、6畳の間が一間(1.8メートル)の土間で仕切られて1部屋になっており、これが4部屋続く長屋構造になっている。遠くから通う学生が写本をするために止まったと考えられている。
宝暦年間(1751~1764年)の姿に復元したものである。
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宥座之器 - 足利学校
宥座之器 2021年10月16日撮影
宥座の器 (ゆうざのき) は、壺状の器が空の時は傾き、ひしゃくで水をすくって器に注ぎ、ちょうどよい水量の時には真っ直ぐに立ち、それ以上水を入れると、ひっくり返ってこぼれてしまう。
孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものはない」と、慢心や無理を戒めたという。

戦国時代から足利学校の易学は有名で、武田信玄は足利学校で疫学を学んだ者を軍師に採用した。江戸時代には、庠主が毎年正月に江戸城の赴き、将軍に年筮 (ねんぜい) を献上した。
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方丈 - 足利学校
方丈 2025年4月26日撮影
宥座の器の脇に方丈の玄関がある。
方丈は学生が講義を受ける場所で、梁間11メートル、桁行17メートル、軒桁までの高さ5メートル。
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方丈 - 足利学校
方丈 2025年4月26日撮影
外側の柱から茅の先(軒先)までが2.8メートル、地上から大棟までの高さは13.8メートルの寄棟造りで、屋根は茅葺き。

禅宗寺院の方丈形式になっていることから、この名が付いた。
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方丈 - 足利学校
方丈 2025年4月26日撮影
床はとても高く、縁側から広い庭を望むことができる。こうした自然に恵まれたキャンパスライフは、なかなかに贅沢である。
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方丈 - 足利学校
方丈 2021年10月16日撮影


渡り廊下で、庠主や学生の日常生活の場である庫裡 (くり) につながっている。庫裡には、竃のある土間、板敷の台所、畳敷きの4部屋があり、その奥には湯殿などがある。
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須弥壇 - 足利学校
須弥壇 2025年4月26日撮影
方丈仏殿の間 (ぶつでんのま) には、2本の来迎柱 (らいごうばしら) の前に黒と朱の本漆塗り (ほんうるしぬり) 須弥壇 (しゅみだん) があり、高欄 (こうらん) にはわらび手がついている。須弥壇の両側にはふき漆で仕上げられた脇仏壇がある。
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上ノ間 - 足利学校
上ノ間 2025年4月26日撮影
方丈上ノ間
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北庭園 - 足利学校
北庭園 2025年4月26日撮影
方丈のの北川には、北庭園が広がる。
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北庭園 - 足利学校
北庭園 2021年10月16日撮影
北庭園は、築山泉水 (つきやませんすい) 庭園で奥の庭として南庭園より格が高く、亀の形をした中之島を配し、そこには弁天を祀る石の祠がある。
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宇降松 - 足利学校
宇降松 2025年4月26日撮影
杏壇門の前にある宇降松 (かなふりまつ) は、今から450年程前、第7世庠主・玉崗瑞璵 (ぎょくこうずいよ) 九華 (きゅうか) のころ、学生が読めない文字を紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、庠主が読み仮名や注釈をつけてくれたことから、この名が付いた。
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杏壇の門 - 足利学校
杏壇の門 2025年4月26日撮影
三番目の門、杏壇門 (きょうだん) をくぐると孔子廟が見えてくる。
1668年(寛文8年)の創建だが、1892年(明治25年)に学校西方の火災により屋根、門扉が焼け、その後再建したものである。柱などに、この時の焼けた跡が残っている。
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杏壇の門 - 足利学校
杏壇の門 2025年4月26日撮影
杏壇の扁額は、は紀伊徳川家第10代藩主大納言・徳川治宝 (とくがわはるとみ) (1771~1852年)の書だ。
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杏壇の扁額 - 足利学校
杏壇の扁額 2025年4月26日撮影
方丈に古い杏壇の扁額が保管、展示されている。
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孔子廟 - 足利学校
孔子廟 2021年10月16日撮影
孔子廟の正式名称は大成殿で、孔子を祀っている。1668年(寛文8年)、足利学校第13世庠主・伝英元教が、明代の聖廟を模して造営した。
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孔子廟 - 足利学校
孔子廟 2025年4月26日撮影
孔子廟は、間口12.7メートル、奥行10.9メートルで、建坪138.6平方メートル(42坪)ある。入徳門学校門杏壇門:blue]、孔子廟は、国の史跡に指定されている。
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孔子廟 - 足利学校
孔子廟 2025年4月26日撮影
孔子廟を裏手(北側)から見たところ。
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孔子坐像 - 足利学校
孔子坐像 2025年4月26日撮影
孔子廟の中央には、木造の孔子坐像がある。像高77.5cm、奥行55.0cm。
頭巾をかぶり、左手は指を開いたまま膝上にのせ、右手の肘を少し曲げて払子を握り心もち高いところから見下ろす様にして端坐している。
墨書銘から、室町時代の1534~1535年(天文4年)の制作ということがわかっている。
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孔子立像 - 足利学校
孔子立像 2021年10月16日撮影
孔子は、中国・春秋時代の思想家で、儒教の創始者。周公を理想の人物と仰ぎ、理想的政治を実現しようと活動する。〈仁〉を中心として人倫を建設することを目的とし、葬礼、孝などの実行を大きな徳目とした。孔子の言葉は弟子たちによって『論語』に書き留められ、各地に「儒教」として伝わった。
漢代に国教となって以降、歴代王朝で重んじられ、各地に孔子廟が建てられた。
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小野篁像 - 足利学校
小野篁像 2025年4月26日撮影
孔子廟の向かって右側には、木造の小野篁 (おののたかむら) 像がある。像高72.7cm、座幅90.5cm。
衣冠束帯し、 (しゃく) を持ってすわり、玉眼 (ぎょくがん) 、彩色を施している。江戸時代に制作された。
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 - 足利学校
2025年4月26日撮影
小野篁(802~852年)は遣隋使・小野妹子 (おののいもこ) の末裔で、歌をよくし、優れた才能で高潔な人だった。女流歌人の小野小町 (おののこまち) が娘であるという説がある。
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楷樹 - 足利学校
楷樹 2025年4月26日撮影
832年(天長9年)あるいは842年(承和9年)に足利学校を創設したともいわれており、儒学の祖である孔子像の傍らに祀られている。
足利学校参観記には江戸時代から多くの学者文人がこの木像を拝したことが記載されている。

孔子廟の周りに多くの楷樹 (カイノキ) (ナンバンハゼノキ)が植えられており、儒教のシンボルツリーのような存在になっている。楷樹は日本には自生しない樹木で、1929年(昭和4年)に東京林業試験場長の白澤保美が国内の儒教施設に植樹した。中国では科挙試験の合格者に楷樹で作った (しゃく) を与えて名誉を讃えたといわれる。
写真は、東京の湯島天神の楷樹の種から育てたものである。
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 - 足利学校
2025年4月26日撮影
孔子廟の前庭には、日露戦争の三提督――伊東祐亨、上村彦之丞、東郷平八郎――が1906年(明治39年)12月22日の孔子祭の際に、この日露戦争の勝利を祝い、植樹した月桂樹がある。
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交通アクセス

【鉄道】
  • JR両毛線「足利駅」から徒歩10分
  • 東武「足利市駅」から徒歩15分
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目的地:足利学校
足利学校 関連

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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