『テンプル騎士団』――時代に乗り遅れた組織の末路

神永正博=著
表紙 テンプル騎士団
著者 佐藤 賢一
出版社 集英社
サイズ 新書
発売日 2018年07月13日
価格 972円(税込)
rakuten
ISBN 9784087210408
詰まるところ、テンプル騎士団は常備軍だった。(115ページ)

概要

1095年の第1回十字軍が成功し、エルサレム王国が建国された。しかし、建国とは名ばかりで、エルサレム巡礼の道程の治安は依然として不安定だった。巡礼者たちを護るため、テンプル騎士団が結成された。創設者のユーグ・ド・パイヤンの出自はよく分かっていないが、彼と9人の騎士、その従者数十名でテンプル騎士団はスタートした。
それから180年にわたり、十字軍の熱気が冷めた後も、テンプル騎士団は常備軍として活躍し、都市の治安と物流網を守り、その信用を基盤に金融業を営むようになった。
だが、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の時代から絶対王政へと変化してゆく時流に乗り遅れ、突然、解体させられる。だが、いくつかの国でテンプル騎士団は生き残り、大航海時代の幕を切って落とすことになる。

時代を見通す感覚がない組織の末路は、いつの時代も悲惨である。そして、民衆の声を利用して国家を動かす全体主義者フィリップ4世は――本書では言及されていないが、ナポレオンやヒトラーは――恐ろしい存在だ。私たちは、もっと歴史を学ぶべきである。

レビュー

1128年、フランスのトロワで公会議が開催され、正式にテンプル騎士団が発足した。テンプル騎士団は、基本的に修道士であり、封建諸侯と異なり主従関係はなく、ただローマ教皇に仕えるのみである。
修道士であるから、神のために戦う。死を恐れない。エゴを克服し、集団で戦闘に臨む。騎士は、白地に赤い十字架が縫い込まれたマントを羽織る。軍服のようなものである。そして、装備品も標準品が支給品される。つまり、一般的な封建騎士と異なり、近代的な職業軍人であり、ヨーロッパに初めて登場した常備軍であった。
テンプル騎士団とほぼ同時期に結成され、同じようにエルサレム防衛にあたっていた聖ヨハネ騎士団も軍備を強化した。

十字軍に対する熱狂の中、テンプル騎士団には多くの寄進が集まり、領地も増え、管区としてテンプル騎士団が運営した。前述の通り封建諸侯に支配されず、徴税権もテンプル騎士団のものであった。
東方でイスラム軍団との戦いで傷ついた騎士や、まだ戦場に出るには早い若者が管区の運営を任された。一線級でなくとも、騎士が常駐している管区は治安が良かった。また、前線へ物資を運ぶためのテンプル街道が整備された。

12世紀後半、サラディンがアイユーブ朝を創始し、1187年、エルサレムを奪還する。これに対し、1189年、第3回十字軍が結成され、アッコンを征服すると、サラティンと休戦に持ち込んだ。
だが、聖地奪回の熱は次第に冷め、1270年、フランス王ルイ9世が主導した第8回十字軍が失敗したことで、実質的な十字軍は終わる。こうしてテンプル騎士団の役割は終わったはずだったが、フランス王と蜜月関係が続き、国の財政を預かるまでになっており、領地経営や各種事業も順風満帆であり、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の時代から絶対王政へと変化してゆく時流に乗り遅れた、

ローマ教皇ボニファティウス8世を憤死させ、クレメンス5世をアヴィニョンに移したフィリップ4世にとって、次に邪魔な存在だったのがテンプル騎士団だ。
1307年10月13日の金曜日、フィリップ4世は突然、フランス全土にいるテンプル騎士団員を一斉逮捕した。騎士団を異端として拷問にかけ、すべての資産は聖ヨハネ騎士団へ移管された。
1312年、フィリップ4世の意を受けたローマ教皇クレメンス5世は、ヴィエンヌ公会議を開き、テンプル騎士団を正式に禁止した。この通知はヨーロッパ全土にもたらされたが、教皇と対立するスコットランドを含め、いくつかの国でテンプル騎士団は生き残った。
ポルトガルではキリスト騎士団と名を変え、15世紀初頭、エンリケ航海王子を輩出する。大航海時代の帆船が赤い十字の帆を張っているのは、テンプル騎士団の名残である。

2007年10月12日、一斉逮捕から700年を経て、ローマ教皇庁は『テンプル騎士団弾劾の過程』を公開し、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとして、騎士団の名誉回復がはかられた。
(2018年9月16日 読了)
(この項おわり)
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