
サラディン(ギュスターヴ・ドレによる想像画)
12世紀中頃、ファーティマ朝のカリフは形骸化し、トルコ系奴隷兵マムルークと黒人奴隷兵の対立が起こり、さらに十字軍の侵入を受けた。
シリアにあったザンギー朝のヌールッディーンは、この状況に介入し、クルド人の部将アイユーブ家のシールクーフを派遣した。シールクーフはカイロに入り、その実権を奪い、ファーティマ朝の宰相に就任した。

1169年(仁安4年)にシールクーフが急死したため、甥のサラディンが宰相の地位を引き継いだ。
彼はマムルークを主力に取り込み、実質的にアイユーブ朝を樹立した。
シリアのザンギー朝はそれを認めなかったが、逆にサラディンによって攻め込まれ、エジプトからシリアにかけて統一政権を実現した。
シリアにあったザンギー朝のヌールッディーンは、この状況に介入し、クルド人の部将アイユーブ家のシールクーフを派遣した。シールクーフはカイロに入り、その実権を奪い、ファーティマ朝の宰相に就任した。

1169年(仁安4年)にシールクーフが急死したため、甥のサラディンが宰相の地位を引き継いだ。
彼はマムルークを主力に取り込み、実質的にアイユーブ朝を樹立した。
シリアのザンギー朝はそれを認めなかったが、逆にサラディンによって攻め込まれ、エジプトからシリアにかけて統一政権を実現した。
この時代の世界
(この項おわり)
シーア派のファーティマ朝に代わり、エジプト・シリアのスンナ派信仰を回復した。そのため、バグダードにいるアッバース朝カリフの権威を認た。
サラディンはさらに1174年(承安4年)にはザンギー朝に代わってシリアのダマスクスを制圧し、エジプトからシリアに及ぶスンナ派統一国家を樹立した。