
テンプル騎士団の紋章
第1回十字軍が成功し、エルサレム王国が建国された。しかし、建国とは名ばかりで、エルサレム巡礼の道程の治安は依然として不安定だった。巡礼者たちを護るため、テンプル騎士団が結成された。創設者のユーグ・ドゥ・バイヤンの出自はよく分かっていないが、彼と9人の騎士、その従者数十名でテンプル騎士団はスタートした。
テンプル騎士団とほぼ同時期に結成され、同じようにエルサレム防衛にあたっていた聖ヨハネ騎士団も軍備を強化した。
テンプル騎士団とほぼ同時期に結成され、同じようにエルサレム防衛にあたっていた聖ヨハネ騎士団も軍備を強化した。
テンプル騎士団の特徴
1.騎士修道会
テンプル騎士団は、平時には修道士であり、封建諸侯と異なり王権に封じられているわけではない。また、既存の教区に縛られるわけでもなく、ただローマ教皇に仕えるのみである。そのため、妻帯してはならない、私有財産を持ってはならないなど、厳格な戒律が定められた。

2.常備軍
修道士であるテンプル騎士団は、神のために戦うという明確な目的で統率されている。
死を恐れず、英雄的な単独行動は慎み、集団で戦闘に臨む。
騎士になると、白地に赤い十字架が縫い込まれた藤一デザインのマントを羽織る。今日でいう軍服である。そして、装備品も標準品が支給品される。つまり、一般的な封建騎士と異なり、近代的な職業軍人であり、ヨーロッパに初めて登場した常備軍であった。

3.領地経営
十字軍に対する熱狂の中、テンプル騎士団には多くの寄進が集まり、領地が増え、管区や支部としてテンプル騎士団が運営した。前述の通り封建諸侯に支配されず、徴税権もテンプル騎士団のものであった。
東方でイスラム軍団との戦いで傷ついた騎士や、まだ戦場に出るには早い若者が管区の運営を任された。一線級でなくとも、騎士が常駐している管区や支部は治安が保たれた。
テンプル騎士団は領主に封じられていないため、戦費を自力で調達する必要があった。そのための寄進なのだが、領地が増えるにつれ、戦費を賄ってあまりある収入となってゆく。

4.物流事業
ヨーロッパ各地にテンプル街道や航路が整備された。
前線へ物資を運ぶために整備し、テンプル騎士団が護衛に当たっているのだが、これがヨーロッパ域内の物流にも転用され、運搬や警護の手数料がテンプル騎士団の収入となった。

5.金融事業
東方戦線では、物資を現地調達するための現金が必要だった。しかも、当時の現金は金属製の重い貨幣だった。
テンプル騎士団は、自前の物流網を使って王侯貴族の現金を運び、拠点に保管した。
また、現金が不足する王侯貴族への貸し付けを行った。
これらもテンプル騎士団の収入となった。
テンプル騎士団は、平時には修道士であり、封建諸侯と異なり王権に封じられているわけではない。また、既存の教区に縛られるわけでもなく、ただローマ教皇に仕えるのみである。そのため、妻帯してはならない、私有財産を持ってはならないなど、厳格な戒律が定められた。

2.常備軍
修道士であるテンプル騎士団は、神のために戦うという明確な目的で統率されている。
死を恐れず、英雄的な単独行動は慎み、集団で戦闘に臨む。
騎士になると、白地に赤い十字架が縫い込まれた藤一デザインのマントを羽織る。今日でいう軍服である。そして、装備品も標準品が支給品される。つまり、一般的な封建騎士と異なり、近代的な職業軍人であり、ヨーロッパに初めて登場した常備軍であった。

3.領地経営
十字軍に対する熱狂の中、テンプル騎士団には多くの寄進が集まり、領地が増え、管区や支部としてテンプル騎士団が運営した。前述の通り封建諸侯に支配されず、徴税権もテンプル騎士団のものであった。
東方でイスラム軍団との戦いで傷ついた騎士や、まだ戦場に出るには早い若者が管区の運営を任された。一線級でなくとも、騎士が常駐している管区や支部は治安が保たれた。
テンプル騎士団は領主に封じられていないため、戦費を自力で調達する必要があった。そのための寄進なのだが、領地が増えるにつれ、戦費を賄ってあまりある収入となってゆく。

4.物流事業
ヨーロッパ各地にテンプル街道や航路が整備された。
前線へ物資を運ぶために整備し、テンプル騎士団が護衛に当たっているのだが、これがヨーロッパ域内の物流にも転用され、運搬や警護の手数料がテンプル騎士団の収入となった。

5.金融事業
東方戦線では、物資を現地調達するための現金が必要だった。しかも、当時の現金は金属製の重い貨幣だった。
テンプル騎士団は、自前の物流網を使って王侯貴族の現金を運び、拠点に保管した。
また、現金が不足する王侯貴族への貸し付けを行った。
これらもテンプル騎士団の収入となった。
テンプル騎士団の盛衰

ジャック・ド・モレー - テンプル騎士団最後の総長

テンプル騎士団礼拝堂(フランス)
十字軍の終焉は、騎士団の存在意義を失わせた。
聖ヨハネ騎士団は、本拠地をロドス島、シチリア島、マルタ島と移し、やがてロシアやフランスの海軍に組み込まれてゆく。
一方、フランス王と蜜月関係が続き、国の財政を預かるまでになっていたテンプル騎士団は、領地経営や各種事業が順風満帆であり、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の時代から絶対王政へと変化してゆく時流に乗り遅れた、
聖ヨハネ騎士団は、本拠地をロドス島、シチリア島、マルタ島と移し、やがてロシアやフランスの海軍に組み込まれてゆく。
一方、フランス王と蜜月関係が続き、国の財政を預かるまでになっていたテンプル騎士団は、領地経営や各種事業が順風満帆であり、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の時代から絶対王政へと変化してゆく時流に乗り遅れた、
十字軍の失敗を受け1294年に即位したボニファティウス8世は、ローマ教皇の権威を取り戻そうと奔走するが、かえって王権の拡大を目論むフランス王フィリップ4世との対立を深めた。1303年、フランス軍がアナーニの別荘にいた強行を襲撃するというアナーニ事件が起き、ボニファティウス8世は憤死してしまう。
フィリップ4世は教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、1309年、ローマ教皇クレメンス5世がイタリアから移動してくる。こうしてローマ教皇はフランス王の言いなりになってゆく。
神聖ローマ皇帝はこの機会を逃さず、イタリアに侵攻した。教皇はイタリアに帰国できなくなり、1377年、グレゴリウス11世がイタリアへ戻るまで、7人の教皇がアヴィニョンで暮らすことになる。いわゆる教皇のアヴィニョン捕囚である。

フィリップ4世にとって、次に邪魔な存在だったのがテンプル騎士団だ。騎士団に国家財政を握られており、領土拡大のための戦費調達にブレーキがかかるためだ。
1307年10月13日の金曜日、フィリップ4世は突然、フランス全土にいるテンプル騎士団員を一斉逮捕した。騎士団を異端として拷問にかけ、すべての資産は聖ヨハネ騎士団へ移管された。
1312年、フィリップ4世の意を受けたローマ教皇クレメンス5世は、ヴィエンヌ公会議を開き、テンプル騎士団を正式に禁止した。この通知はヨーロッパ全土にもたらされたが、教皇と対立するスコットランドを含め、いくつかの国でテンプル騎士団は生き残った。
ポルトガルではキリスト騎士団と名を変え、15世紀初頭、エンリケ航海王子を輩出する。大航海時代の帆船が赤い十字の帆を張っているのは、テンプル騎士団の名残である。

2007年10月12日、一斉逮捕から700年を経て、ローマ教皇庁は『テンプル騎士団弾劾の過程』を公開し、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとして、騎士団の名誉回復がはかられた。
フィリップ4世は教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、1309年、ローマ教皇クレメンス5世がイタリアから移動してくる。こうしてローマ教皇はフランス王の言いなりになってゆく。
神聖ローマ皇帝はこの機会を逃さず、イタリアに侵攻した。教皇はイタリアに帰国できなくなり、1377年、グレゴリウス11世がイタリアへ戻るまで、7人の教皇がアヴィニョンで暮らすことになる。いわゆる教皇のアヴィニョン捕囚である。

フィリップ4世にとって、次に邪魔な存在だったのがテンプル騎士団だ。騎士団に国家財政を握られており、領土拡大のための戦費調達にブレーキがかかるためだ。
1307年10月13日の金曜日、フィリップ4世は突然、フランス全土にいるテンプル騎士団員を一斉逮捕した。騎士団を異端として拷問にかけ、すべての資産は聖ヨハネ騎士団へ移管された。
1312年、フィリップ4世の意を受けたローマ教皇クレメンス5世は、ヴィエンヌ公会議を開き、テンプル騎士団を正式に禁止した。この通知はヨーロッパ全土にもたらされたが、教皇と対立するスコットランドを含め、いくつかの国でテンプル騎士団は生き残った。
ポルトガルではキリスト騎士団と名を変え、15世紀初頭、エンリケ航海王子を輩出する。大航海時代の帆船が赤い十字の帆を張っているのは、テンプル騎士団の名残である。

2007年10月12日、一斉逮捕から700年を経て、ローマ教皇庁は『テンプル騎士団弾劾の過程』を公開し、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとして、騎士団の名誉回復がはかられた。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
テンプル騎士団 | ||
著者 | 佐藤 賢一 | ||
出版社 | 集英社 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2018年07月13日頃 | ||
価格 | 990円(税込) | ||
ISBN | 9784087210408 | ||
十二世紀初頭に誕生した「テンプル騎士団」は、もともとエルサレム巡礼に向かう人々の保護のために設立された。しかしその後、軍事力、政治力、経済力すべてを持ち合わせた超国家組織に変貌を遂げる。彼らは、後世に影響を与えた数々の画期的な制度(管区、支部といった巨大ネットワークを張り巡らせる組織作り、指揮命令系統の明確な自前の常備軍、銀行業の始まりともいわれる財務管理システムなど)を形成した。西洋歴史小説の第一人者が、その成立過程から悲劇的結末までの二百年にわたる興亡を鮮やかに描き出す。 | |||
(この項おわり)
当時の封建騎士とは異なる特徴をもち、王侯貴族からも一目置かれていたテンプル騎士団は、今日でも陰謀論の登場人物として語られることがある。