
アヴィニョン教皇庁
200年前にはじまった十字軍遠征は失敗。1291年(正応4年)にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落し、十字軍国家は全滅したことで、ローマ教皇の権威は揺らいでいた。そんななか、1294年(永仁2年)に即位したボニファティウス8世は、教皇至上主義を唱えた。
一方、王権の拡大を目論むフランス王フィリップ4世はボニファティウス8世と対立を深め、1303年(乾元2年)、フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃するというアナーニ事件が起きる。
ボニファティウス8世はその直後に憤死する。これ以降、ローマ教皇はフランス王の言いなりとなっていった。

フィリップ4世の要請を受け、教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移され、1309年(延慶2年)に教皇クレメンス5世がイタリアから移動した。
教皇庁がアナーニ事件の事後処理のためのヴィエンヌ公会議の準備に手間取る間に、フランス王の封建家臣である神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアに侵攻し、クレメンス5世はイタリアへの帰国ができなくなる。
1377年(天授3年)に教皇グレゴリウス11世がイタリアへ戻るまで、教皇のアヴィニョン捕囚が続くことになる。

アヴィニョンから帰還したグレゴリウス11世は、翌1378年(天授4年)に死去。教皇選挙が行われ、イタリア人のウルバヌス6世が選出されるが、フランス人枢機卿らが異を唱え、クレマンス7世を対立教皇として支持し、ローマ教会の大分裂(シスマ)がはじまる。
一方、王権の拡大を目論むフランス王フィリップ4世はボニファティウス8世と対立を深め、1303年(乾元2年)、フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃するというアナーニ事件が起きる。
ボニファティウス8世はその直後に憤死する。これ以降、ローマ教皇はフランス王の言いなりとなっていった。

フィリップ4世の要請を受け、教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移され、1309年(延慶2年)に教皇クレメンス5世がイタリアから移動した。
教皇庁がアナーニ事件の事後処理のためのヴィエンヌ公会議の準備に手間取る間に、フランス王の封建家臣である神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアに侵攻し、クレメンス5世はイタリアへの帰国ができなくなる。
1377年(天授3年)に教皇グレゴリウス11世がイタリアへ戻るまで、教皇のアヴィニョン捕囚が続くことになる。

アヴィニョンから帰還したグレゴリウス11世は、翌1378年(天授4年)に死去。教皇選挙が行われ、イタリア人のウルバヌス6世が選出されるが、フランス人枢機卿らが異を唱え、クレマンス7世を対立教皇として支持し、ローマ教会の大分裂(シスマ)がはじまる。
アヴィニョンの位置
この時代の世界
(この項おわり)
1377年(天授3年)に教皇グレゴリウス11世がイタリアへ戻るまで、7人の教皇がアヴィニョンで暮らすことになる。これを教皇のアヴィニョン捕囚、または古代のバビロン捕囚になぞらえて教皇のバビロン捕囚と呼ぶ。