飯盛山(福島県会津若松市一箕町)は、江戸時代末期の戊辰戦争の際、16~17 歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊20 人が退却中に辿り着いた地で、鶴ヶ城の天守閣が陥落したと誤認し、全員がこの地で自決した。
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山頂まで 183 段の石段がある。年齢も年齢であるので、迷わず「動く坂道」(有料)を利用。エスカレーターではなく、スロープになっている。
この階段を上るのは、もはや無理である(苦笑)。
1928 年(昭和 3 年)、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニから「白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある」と贈られた石碑である。ムッソリーニは勘違いしている。

とはいうものの、中心の円柱は、ヴェスヴィオ火山の爆発で埋没したポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱を流用している貴重品だ。
建設当時は、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリが 5 体飾られていたが、第二次世界大戦後、進駐軍に持ち去られてしまい、石碑も倒されてしまった。
とはいうものの、中心の円柱は、ヴェスヴィオ火山の爆発で埋没したポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱を流用している貴重品だ。
建設当時は、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリが 5 体飾られていたが、第二次世界大戦後、進駐軍に持ち去られてしまい、石碑も倒されてしまった。
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたため、明治政府は白虎隊の遺体を放置するように命じた。
不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと遺骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬した。
不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと遺骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬した。
1869 年(明治 2 年)、ようやく飯盛山中腹に合葬が許され、飯盛一族が旧藩主に土地を献納し、白虎隊墓地を新設した。

1884 年(明治 17 年)には墓地を拡張し、慰霊祭を行った。現在も春と秋の年 2 回行われる慰霊祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納されます。

1890 年(明治 23 年)、正面に十九士(日新館出身・飯盛山にて自刃)の墓が建ち、その右側には会津各地で戦い、無くなった白虎隊士 31 名の墓がある。
1890 年(明治 23 年)、正面に十九士(日新館出身・飯盛山にて自刃)の墓が建ち、その右側には会津各地で戦い、無くなった白虎隊士 31 名の墓がある。
広場を鶴ヶ城方向に少し下った場所に、白虎隊士自刃の地がある。

慶応 4 年(1868 年)8 月 23 日。戊辰戦争の戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けた白虎隊二番隊は、負傷者を抱えながら飯盛山に落ち延び、最後にこの場所で城下町が炎上するのを見て自刃を決めたと言われている。
慶応 4 年(1868 年)8 月 23 日。戊辰戦争の戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けた白虎隊二番隊は、負傷者を抱えながら飯盛山に落ち延び、最後にこの場所で城下町が炎上するのを見て自刃を決めたと言われている。
参考サイト
- 飯盛山:会津飯盛山上
- 旧滝沢本陣:会津若松観光
- 白虎隊自刃の地:としの福島トレッキング
- 福島の旅 4~飯盛山~:ももよろずハイパー
- 飯盛山と白虎隊:新潟下越発☆B級食べある記
- 近所(じゃない)の心霊スポット〜「飯盛山・福島県会津若松市」:実録!!ほんとにあった(と思う)怖い話
近隣の情報
- 磐越西線から会津鉄道の紅葉と橋梁:ぱふぅ家のホームページ
- 鶴ヶ城は難攻不落の名城:ぱふぅ家のホームページ
- 会津若松駅は城郭風の駅舎:ぱふぅ家のホームページ
- 飯盛山は白虎隊終焉の地:ぱふぅ家のホームページ
- 会津さざえ堂は二重螺旋でめぐる:ぱふぅ家のホームページ
- GAP認証のコメで日本酒「与次右衛門」発売(2018年2月17日)
- 戊辰戦争の旧敵悼み続ける会津若松市の西軍墓地(2018年1月7日)
- 緑に輝く鶴ケ城 グリーンリボンデー・ライトアップ(2017年10月22日)
- 白虎隊の武士道後世へ 生家跡に記念碑(2017年9月21日)
- 間近で観察カブトムシ(2016年7月20日)
- 鶴ケ城で「枝つり」始まる 公園内の63本のマツに縄を張る(2014年12月1日)
この付近でネットができる宿
- ホテルルートイン会津若松 (福島県会津若松市平安町1-5)
- 会津若松ワシントンホテル (福島県会津若松市白虎町201)
- たけみ旅館 (福島県会津若松市中央3-7-28)
- グリーンホテル会津 (福島県会津若松市中央3-7-23)
- センチュリーホテル (福島県会津若松市上町8-30)
- 東横イン会津若松駅前 (福島県会津若松市白虎町222-1)
(この項おわり)

