飯盛山は白虎隊終焉の地

2016年8月15日 撮影
飯盛山
飯盛山(福島県会津若松市一箕町)は、江戸時代末期の戊辰戦争の際、16~17歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊20人が退却中に辿り着いた地で、鶴ヶ城の天守閣が陥落したと誤認し、全員がこの地で自決した。
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動く坂道 - 飯盛山
山頂まで183段の石段がある。年齢も年齢であるので、迷わず「動く坂道」(有料)を利用。エスカレーターではなく、スロープになっている。
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飯盛山
この階段を上るのは、もはや無理である(苦笑)。
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ローマ記念碑 - 飯盛山
1928年(昭和3年)、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニから「白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある」と贈られた石碑である。ムッソリーニは勘違いしている。

とはいうものの、中心の円柱は、ヴェスヴィオ火山の爆発で埋没したポンペイから発掘した古代ローマ宮殿の柱を流用している貴重品だ。
建設当時は、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリが5体飾られていたが、第二次世界大戦後、進駐軍に持ち去られてしまい、石碑も倒されてしまった。
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飯盛山
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたため、明治政府は白虎隊の遺体を放置するように命じた。
不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと遺骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬した。
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飯盛山
1869年(明治2年)、ようやく飯盛山中腹に合葬が許され、飯盛一族が旧藩主に土地を献納し、白虎隊墓地を新設した。

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飯盛山
1884年(明治17年)には墓地を拡張し、慰霊祭を行った。現在も春と秋の年2回行われる慰霊祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納されます。

1890年(明治23年)、正面に十九士(日新館出身・飯盛山にて自刃)の墓が建ち、その右側には会津各地で戦い、無くなった白虎隊士31名の墓がある。
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白虎隊士自刃の地 - 飯盛山
広場を鶴ヶ城方向に少し下った場所に、白虎隊士自刃の地がある。

慶応4年(1868年)8月23日。戊辰戦争の戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けた白虎隊二番隊は、負傷者を抱えながら飯盛山に落ち延び、最後にこの場所で城下町が炎上するのを見て自刃を決めたと言われている。
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飯盛山
この場所は会津若松市内が一望できる絶景スポットだ。彼方に、復元された鶴ヶ城の天守閣が見える。
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飯盛山
飯盛山の麓には旧滝沢本陣がある。
会津藩主が参勤交代などの際に使った休憩所で、茅葺きの屋根におおわれた書院づくりの建物は、国指定史跡・国指定重要文化財に指定されている。歴代藩主の愛用した身回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されている。
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交通アクセス

会津若松駅からバスで約10分。まちなか周遊バスの1日フリー乗車券がお得だ。
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出発地の最寄駅:

目的地:飯盛山

参考サイト

鬼怒川温泉

近隣の情報

(この項おわり)
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