![飯盛山](img20160815-105609e.jpg)
飯盛山(福島県会津若松市一箕町)は、江戸時代末期の戊辰戦争の際、16~17歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊20人が退却中に辿り着いた地で、鶴ヶ城の天守閣が陥落したと誤認し、全員がこの地で自決した。
大きな写真
![飯盛山の大きな写真](../../../common/i_camera.gif)
(1920×1271 ピクセル, 1011 Kbyte)
![動く坂道 - 飯盛山](img20160815-115440e.jpg)
山頂まで183段の石段がある。年齢も年齢であるので、迷わず「動く坂道」(有料)を利用。エスカレーターではなく、スロープになっている。
![飯盛山](img20160815-110222e.jpg)
この階段を上るのは、もはや無理である(苦笑)。
![ローマ記念碑 - 飯盛山](img20160815-110500e.jpg)
![飯盛山](img20160815-111005e.jpg)
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたため、明治政府は白虎隊の遺体を放置するように命じた。
不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと遺骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬した。
不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと遺骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬した。
![飯盛山](img20160815-110719e.jpg)
![飯盛山](img20160815-110929e.jpg)
1884年(明治17年)には墓地を拡張し、慰霊祭を行った。現在も春と秋の年2回行われる慰霊祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納されます。
![](../../../common/space.gif)
1890年(明治23年)、正面に十九士(日新館出身・飯盛山にて自刃)の墓が建ち、その右側には会津各地で戦い、無くなった白虎隊士31名の墓がある。
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1890年(明治23年)、正面に十九士(日新館出身・飯盛山にて自刃)の墓が建ち、その右側には会津各地で戦い、無くなった白虎隊士31名の墓がある。
![白虎隊士自刃の地 - 飯盛山](img20160815-111601e.jpg)
広場を鶴ヶ城方向に少し下った場所に、白虎隊士自刃の地がある。
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慶応4年(1868年)8月23日。戊辰戦争の戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けた白虎隊二番隊は、負傷者を抱えながら飯盛山に落ち延び、最後にこの場所で城下町が炎上するのを見て自刃を決めたと言われている。
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慶応4年(1868年)8月23日。戊辰戦争の戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けた白虎隊二番隊は、負傷者を抱えながら飯盛山に落ち延び、最後にこの場所で城下町が炎上するのを見て自刃を決めたと言われている。
![飯盛山](img20160815-103408e.jpg)
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(この項おわり)