鶴ヶ城は難攻不落の名城

2016年8月15日 撮影
鶴ヶ城
鶴ヶ城 (つるがじょう) (福島県会津若松市追手町1-1)は難攻不落の名城で、戊辰戦争の際には新政府群の猛攻の前に、1ヶ月間も籠城してみせた。1874年(明治7年)、石垣だけを残して取り壊された。会津若松城とも呼ばれる。

天守閣を含む鶴ヶ城公園の広さは約8万7千坪で、東京ドームの約6倍の広さを誇る。江戸時代はさらに広かったと考えられている。
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鶴ヶ城
公園には約1千本の桜が植えられており、「全国さくらの名所百選の地」に指定されている。ソメイヨシノのほか、八重桜やコヒガンザクラなどがある。
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鶴ヶ城
南北朝時代の1384年(弘和4年)、蘆名直盛 (あしななおもり) が館を造ったのがはじまりとされる。代々、蘆名家の居城として、15世紀半ばには黒川城 (くろかわじょう) と呼ばれるようになっていた。
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鶴ヶ城
1589年(天正17年)、伊達政宗が攻め込み、黒川城を手中に収めた。だが、正宗は豊臣秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。

代わって黒川城に入ったのが蒲生氏郷 (がもううじさと) で、1593年(文禄2年)に七層の天守閣を完成させ、黒川を若松に改め、町割りを作った。また城の名前は鶴ヶ城と命名した。

その後、城主は上杉、蒲生、加藤と代わり、1643年(寛永20年)、3代将軍・徳川家光の庶弟である保科正之 (ほしなまさゆき) が入り、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
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鶴ヶ城
1868年(慶応4年)、戊辰戦争の際には会津戦争にて、新政府軍は薩摩の援軍の助けを借りても鶴ヶ城を落とすことができなかった。だが、16~17歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊20人は、8月、飯盛山から城下町が炎上するのを見て、天守が落ちたと誤認し、全員が自刃した。

9月、鶴ヶ城は開城し、新政府軍の手に渡った。1874年(明治7年)、廃城となり、石垣を残して城は取り壊された。

1965年(昭和40年)9月、多くの寄付によって、天守閣が鉄筋コンクリート造で再建された。内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されている。
料金を払って、石垣の中程から場内に入ることができる。5階まで階段で上る。各階には、鶴ヶ城の歴史や宝物が展示されている。
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鶴ヶ城
黒瓦だった天守の屋根瓦は、明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ、2011年(平成23年)3月に竣工した。現在、本丸の御三階櫓が復元工事中だ。
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鶴ヶ城から会津若松市街を望む
天守閣の高さは36.5メートル(うち石垣は11メートル)あり、5階から、会津若松市街を一望できる。
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麟閣 - 鶴ヶ城
1990年(平成2年)、千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室「麟閣 (りんかく) 」が本丸の元の場所に移築復元された。福島県指定重要文化財である。
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1591年(天正19年)、豊臣秀吉の怒りに触れた千利休が切腹し、千家が茶の湯の世界から追放された。このとき、蒲生氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、その子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけた。
かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが麟閣である。
その甲斐あって、少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦 (そうたん) に引き継がれた。
そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれた。
鶴ヶ城
お城ボくんは、鶴ヶ城をモチーフとしたゆるキャラで、会津若松市が制作。デザインは、タツノコプロ顧問の笹川ひろしさんが担当した。
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交通アクセス

会津若松駅からバス(ハイカラさん)で約20分。周辺観光には、まちなか周遊バスの1日フリー乗車券がお得だ。
行き方ナビ
出発地の最寄駅:

目的地:鶴ヶ城

参考サイト

会津若松

近隣の情報

(この項おわり)
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