
主塔頂から神戸側を望む 2023年8月26日 撮影

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淡路島側 2017年10月14日 撮影
淡路島側

淡路島側 2017年10月14日 撮影

淡路島側 2017年10月14日 撮影

淡路島側 2022年1月15日 撮影

淡路島側 2017年10月14日 撮影
道路幅は35メートルで片側3車線あり、橋桁の総重量は9万トン。吊橋を支えるメインケーブルにかかる水平張力は1本あたり約6万5千トンにも及ぶ。

神戸側 2022年1月15日 撮影
この強大な張力に抵抗するために、神戸側と淡路島側に35万トンもの重さがあるコンクリートの塊「アンカレイジ」を設置している。橋梁基礎としては世界最大である。

淡路島側 2017年10月14日 撮影
吊橋のメインケーブルは、直径5.23mmの世界最高強度のピアノ線を127本束ねたストランドを、さらに290本束ね、直径1.122メートルとなっている。この表面をゴムで覆い、さらに内部に脱塩、乾燥した空気を常時送風することで腐食を防止している。

神戸側 2022年1月15日 撮影
きちんと維持管理すれば、吊橋は200年もつという。

淡路島側 2017年10月14日 撮影
海上工事でケーソンや浮標灯の係留をする重りとして使われた鋼製シンカー。
普通はコンクリートで作られるが、明石海峡大橋で必要となる重量のものをコンクリートで作ろうとすると大きくなりすぎるので、鋼製を採用した。年に数回しかない潮流の緩やかな時期を狙い、ケーソンを誤差数センチで正確に沈めたという。
普通はコンクリートで作られるが、明石海峡大橋で必要となる重量のものをコンクリートで作ろうとすると大きくなりすぎるので、鋼製を採用した。年に数回しかない潮流の緩やかな時期を狙い、ケーソンを誤差数センチで正確に沈めたという。

道の駅あわじで見かけた丸型ポスト。

終戦直後の1945年(昭和20年)12月、連絡船せきれい丸が明石海峡で沈没し、死者300余名を出す惨事となった。さらに1955年(昭和30年)5月には紫雲丸が沈没し、修学旅行生など死者168名を出した。これらを受け、架橋運動が盛り上がった。

1970年(昭和45年)、本州四国連絡橋公団が設立され、1988年(昭和63年)5月に着工。5000億円の巨費を投じ、1998年(平成10年)4月5日に供用開始した。

終戦直後の1945年(昭和20年)12月、連絡船せきれい丸が明石海峡で沈没し、死者300余名を出す惨事となった。さらに1955年(昭和30年)5月には紫雲丸が沈没し、修学旅行生など死者168名を出した。これらを受け、架橋運動が盛り上がった。

1970年(昭和45年)、本州四国連絡橋公団が設立され、1988年(昭和63年)5月に着工。5000億円の巨費を投じ、1998年(平成10年)4月5日に供用開始した。

ネギま!丼
道の駅あわじには、「ネギま!丼」なる謎メニューが。
神戸側

神戸側 2018年9月3日 撮影
2018年(平成30年)4月5日、開通20周年を迎えた。
開通当初は、普通車で片道2,600円だった料金は、2009年(平成21年)に大きく値下げされ、2014年(平成26年)には片道900円となった。
開通当初は、普通車で片道2,600円だった料金は、2009年(平成21年)に大きく値下げされ、2014年(平成26年)には片道900円となった。

神戸側 2023年8月26日 撮影
安いという認識が広がり、通行台数は2016年(平成28年)に過去最多の1335万台に達した。淡路島の観光客数も増加した。一方、通行料金収入は減少。開通当初は年間475億円だったが、2009年度に288億円まで減少。

神戸側 2023年8月26日 撮影
その後、増加に転じているが、2016年度は365億円に留まる。料金収入は、5000億円という膨大な建設費の償還に加え、保守維持費に回されている。

神戸側 2023年8月26日 撮影

神戸側 2023年8月26日 撮影
1916年(大正5年)に京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、内務省に入省し、四国の神戸・中国・四国などの土木出張所長を歴任した原口忠次郎は、四国の交通網整備が遅れており、豊かな産物を阪神地域へ送るルートがないことを嘆いていた。
1945年(昭和20年)12月9日にせきれい丸が明石海峡で沈没し、死者304名の惨事となった。1949年(昭和24年)に第12代神戸市長に就任し、技術屋市長として1957年(昭和32年)に明石海峡に橋を架けることを提案する。しかし、技術的難易度が高すぎて、誰も相手にしなかった。水深が深く、吊橋にするしかなかったからだ。それでも毎月調査報告を発表し、国に働きかけた。
1945年(昭和20年)12月9日にせきれい丸が明石海峡で沈没し、死者304名の惨事となった。1949年(昭和24年)に第12代神戸市長に就任し、技術屋市長として1957年(昭和32年)に明石海峡に橋を架けることを提案する。しかし、技術的難易度が高すぎて、誰も相手にしなかった。水深が深く、吊橋にするしかなかったからだ。それでも毎月調査報告を発表し、国に働きかけた。

神戸側 2023年8月26日 撮影
原口は1969年(昭和44年)まで市長を務め、山を削った土で海面を埋め立ててポートアイランドなどを整備し、山を削った跡をニュータウンなどとして開発し、六甲山トンネルを含む六甲有料道路、神戸ポートタワー、神戸高速鉄道などの事業を次々と成功させた。

高速舞子バスのりば 2022年1月15日 撮影
高速舞子バスのりばは、神姫バスのバス停で、JR舞子駅および山陽電車の舞子公園駅に隣接している。

高速舞子バスのりば 2022年1月15日 撮影
エスカレーターに乗ってバス停を目指す。

高速舞子バスのりば 2022年1月15日 撮影
高速バスに乗って、明石海峡大橋を渡ることができる。

神戸側 2022年1月15日 撮影
主塔基礎は、主塔から受ける約12万トンの力を、水深60メートルの支持地盤に伝えている。

神戸側 2022年1月15日 撮影
速い潮流により工事は困難を極めたが、工場で製作された鋼製ケーソンを曳航、沈設し、新開発の水中不分離性コンクリートと気中コンクリートを打設する設置ケーソン工法によって実現した。

補剛桁には高張力鋼材を大量に使用し、重量の軽減を図ったが、それでも全体で9万トンに達する。
明石海峡大橋のような長大吊橋の補剛桁は、耐風設計が最重要課題であるため、風洞試験により断面形状・寸法を最適化し、中央径間には鉛直スタビライザーを設置し、耐風安定性を確保している。

補剛桁には高張力鋼材を大量に使用し、重量の軽減を図ったが、それでも全体で9万トンに達する。
明石海峡大橋のような長大吊橋の補剛桁は、耐風設計が最重要課題であるため、風洞試験により断面形状・寸法を最適化し、中央径間には鉛直スタビライザーを設置し、耐風安定性を確保している。

神戸側 2018年9月3日 撮影
フェリーから明石海峡大橋を見上げたところ。

神戸側 2022年1月15日 撮影
JBハイウェイサービスが運営する橋の科学館(神戸市垂水区東舞子町4-114)には、明石海峡大橋を中心に、本州四国連絡橋の建設に使われた技術を集めて展示している。
明石海峡大橋ブリッジワールド

淡路島側アンカレイジ 2023年8月26日 撮影
明石海峡大橋ブリッジワールドは、橋の建設に携わったツアーリーダーが、その技術屋歴史を解説しながら、ふだんは立ち入ることが出来ない管理用通路を通り、海面上約300メートルにそびえる主塔の頂上に案内してくれるツアーである。
集合場所は、淡路島側のアンカレイジ――中に入ることができる構造になっている。
集合場所は、淡路島側のアンカレイジ――中に入ることができる構造になっている。

淡路島側橋桁 2023年8月26日 撮影
アンカレイジ内でツアー説明を受けた後、橋桁の高さまでは階段で上る。高さ40メートル、171段の階段がある。
ここから神戸方面に、橋桁を1kmほど進む。
ここから神戸方面に、橋桁を1kmほど進む。

淡路島側橋桁 2023年8月26日 撮影
橋桁は海面からの高さ50メートルあり、写真の通り――高いところが苦手な方は、このツアーには参加しない方がいいだろう。

ケーブル送気乾燥システム 2023年8月26日 撮影
ケーブル送気乾燥システムの制御装置。
鉄は、相対湿度60%以下ではほとんど腐食しないことから、橋を支えるケーブルの隙間に管理目標値40%以下の乾燥空気を送り続けている。
鉄は、相対湿度60%以下ではほとんど腐食しないことから、橋を支えるケーブルの隙間に管理目標値40%以下の乾燥空気を送り続けている。

淡路島側橋桁 2023年8月26日 撮影
橋桁の淡路島側を振り返る。

淡路島側橋桁 2023年8月26日 撮影
管理用の軽自動車が駐車している。橋の巨大さが分かる。

主塔エレベーター 2023年8月26日 撮影
エレベーターに乗り、98階まで約2分を要する。

1970年(昭和45年)に本州四国連絡橋公団が設立されるが、1973年(昭和48年)に発生した石油ショックを受け、高度経済成長は終わりを迎え、明石海峡への架橋の必要性が薄れてしまった。そんななかの1976年(昭和51年)3月22日、原口忠次郎は86歳の生涯を終える。
神戸製鋼に入社した穐山正幸は、その生意気な態度が祟り、吊橋の部署に異動させられた。当時、日本の吊橋建設技術は遅れており、鋼鉄のケーブルを作るだけでなく、建設手法も開発していた。

1970年(昭和45年)に本州四国連絡橋公団が設立されるが、1973年(昭和48年)に発生した石油ショックを受け、高度経済成長は終わりを迎え、明石海峡への架橋の必要性が薄れてしまった。そんななかの1976年(昭和51年)3月22日、原口忠次郎は86歳の生涯を終える。
神戸製鋼に入社した穐山正幸は、その生意気な態度が祟り、吊橋の部署に異動させられた。当時、日本の吊橋建設技術は遅れており、鋼鉄のケーブルを作るだけでなく、建設手法も開発していた。

塔頂 2023年8月26日 撮影
塔頂に到着。海面からの高さは289メートルある。

塔頂 2023年8月26日 撮影

塔頂 2023年8月26日 撮影
塔頂の様子。滞在時間は約15分。神戸、淡路島、大阪湾、瀬戸内海を一望できる360度の大パノラマが目の前に広がる。
写真撮影可能だが、カメラやスマホはネックストラップで身体に固定すること。
写真撮影可能だが、カメラやスマホはネックストラップで身体に固定すること。

塔頂から神戸側を望む 2023年8月26日 撮影
塔頂から神戸側を望む。

塔頂から神戸側を望む 2023年8月26日 撮影
橋の上を走る自動車が米粒のように小さい。

上司の三田村武は、米国のゴールデンゲートブリッジが完成した1937年(昭和12年)に生まれ、いつか大きな吊橋を架けることが夢だった。三田村は穐山に原口忠次郎が作らせた調査月報を読むように命じ、穐山はむさぼるように読んだ。三田村は穐山に課題を与え、その結果のみを評価するという生粋の技術屋だった。
10年が過ぎ、明石海峡大橋の建設がスタートする。1988年(昭和63年)に主塔の工事が進む一方、新日鉄と神戸製鋼が強力なワイヤを開発したが、それを37,000本束ねなければ巨大な吊橋を支えることができない。三田村は穐山に繰り返し実験させた。

上司の三田村武は、米国のゴールデンゲートブリッジが完成した1937年(昭和12年)に生まれ、いつか大きな吊橋を架けることが夢だった。三田村は穐山に原口忠次郎が作らせた調査月報を読むように命じ、穐山はむさぼるように読んだ。三田村は穐山に課題を与え、その結果のみを評価するという生粋の技術屋だった。
10年が過ぎ、明石海峡大橋の建設がスタートする。1988年(昭和63年)に主塔の工事が進む一方、新日鉄と神戸製鋼が強力なワイヤを開発したが、それを37,000本束ねなければ巨大な吊橋を支えることができない。三田村は穐山に繰り返し実験させた。

塔頂から淡路島側を望む 2023年8月26日 撮影
塔頂から淡路島側を望む。

1993年(平成5年)、いよいよワイヤを渡す工事が始まる。だが、交通量が多い明石海峡では、海上にパイロットロープを渡すという一般的な工法をとることができない。

1993年(平成5年)、いよいよワイヤを渡す工事が始まる。だが、交通量が多い明石海峡では、海上にパイロットロープを渡すという一般的な工法をとることができない。

塔頂から淡路島側を望む 2023年8月26日 撮影
11月10日、ヘリコプターを使って2,000メートルのパイロットロープを空中架設するという世界でも例を見ない作業を敢行する。1994年(平成6年)6月、ワイヤの架設が始まり、6月に完了する。

明石海峡大橋ブリッジワールド 2023年8月26日 撮影
昇ったときのルートを引き返し、最後にツアー参加記念の認定書を受け取ってツアー終了となる。
舞子公園・舞子海上プロムナード

舞子公園 2022年1月15日 撮影
明治天皇に愛され、7回にわたって行幸のあった舞子浜は、1900年(明治33年)に兵庫県立の舞子公園として整備された。
神戸の近代化とともに変貌を遂げ、現在は明石海峡大橋〈パールブリッジ〉のゲートとなっている。

明石海峡大橋の生みの親である原口忠次郎博士(第12代神戸市長)の偉業を称え、明石海峡大橋架橋5周年にあたり、記念の碑「夢レンズ」が建立された。
三種の異なった岩肌によるメビウスの輪は、人、自然、科学を、そして明石海峡大橋が結んだ本州を淡路、四国を表している。この3つの層が調和し、円空から未来への発展を展望する。台座には「人生すべからく 夢なくしてはかないません」という原口の言葉が刻まれている。
神戸の近代化とともに変貌を遂げ、現在は明石海峡大橋〈パールブリッジ〉のゲートとなっている。

明石海峡大橋の生みの親である原口忠次郎博士(第12代神戸市長)の偉業を称え、明石海峡大橋架橋5周年にあたり、記念の碑「夢レンズ」が建立された。
三種の異なった岩肌によるメビウスの輪は、人、自然、科学を、そして明石海峡大橋が結んだ本州を淡路、四国を表している。この3つの層が調和し、円空から未来への発展を展望する。台座には「人生すべからく 夢なくしてはかないません」という原口の言葉が刻まれている。

孫文記念館(移情閣) 2022年1月15日 撮影

舞子海上プロムナード 2022年1月15日 撮影
舞子海上プロムナードは、1998年(平成10年)4月5日に開設された明石海峡大橋の付属施設で、海面からの高さ約47メートル、陸地から約150メートル、明石海峡へ突出した延長約317メートルの回遊式遊歩道となっている。

舞子海上プロムナード 2022年1月15日 撮影
海上プロムナード入口1階は明石海峡大橋をわかりやすく解説した資料やDVDシステムがある。

舞子海上プロムナード 2022年1月15日 撮影
眼下47メートルの海とスリルを楽しみたい方は、丸木橋をどうぞ。

ワイヤの架設が終わった直後の1995年(平成7年)1月17日、阪神・淡路大震災が発生。震源地は明石海峡だった。被害調査の結果、海峡の幅が1メートル伸びていたものの、主塔の傾きは40cmと安全の範囲に収まっていることがわかり、1ヶ月後、工事再開となった。
6月、巨大クレーン船を使って橋桁の運搬、設置が始まり、1ヶ月の遅れを取り戻す。1996年(平成8年)9月18日、橋桁が完成する。1998年(平成10年)3月21日、22日に記念イベントが開催され、4月5日に供用開始。原口の発案から40年の歳月が流れた。

ワイヤの架設が終わった直後の1995年(平成7年)1月17日、阪神・淡路大震災が発生。震源地は明石海峡だった。被害調査の結果、海峡の幅が1メートル伸びていたものの、主塔の傾きは40cmと安全の範囲に収まっていることがわかり、1ヶ月後、工事再開となった。
6月、巨大クレーン船を使って橋桁の運搬、設置が始まり、1ヶ月の遅れを取り戻す。1996年(平成8年)9月18日、橋桁が完成する。1998年(平成10年)3月21日、22日に記念イベントが開催され、4月5日に供用開始。原口の発案から40年の歳月が流れた。

舞子海上プロムナード 2022年1月15日 撮影
8階展望ラウンジの展望カメラシステムでは、明石海峡大橋の主塔(高さ約300メートル)に上った気分を味わうことができる。

舞子海上プロムナード 2022年1月15日 撮影
展望ラウンジから明石市街を望む。

舞子海上プロムナード 2022年1月15日 撮影
展望ラウンジにある Tom's Cafe は、明石の食材を使った食事やオリジナルデザートを用意している。
交通アクセス
国道28号(神戸淡路鳴門自動車道)は有料である。設計速度は100km/hだが、最高速度80km/h、最低速度50km/hに規制されている。


近隣の情報
- 明石海峡大橋は世界最長の吊橋:ぱふぅ家のホームページ
- 五色塚古墳は兵庫県内最大の前方後円墳:ぱふぅ家のホームページ
- 明石市立天文科学館と人丸前駅は日本標準時子午線の上に建つ:ぱふぅ家のホームページ
- 明石焼を10個食べたらお腹いっぱい:ぱふぅ家のホームページ
- ウェスティンホテル淡路は淡路夢舞台に建つ高級ホテル:ぱふぅ家のホームページ
- 夜の森歩き「鬼滅の刃」の世界へ、音や光で鬼との戦いを再現(2022年4月14日)
- 淡路島ソフトつくる牛型ロボ(2021年9月19日)
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- あわじ花さじきで菜の花満開 見晴らし台も新設(2017年3月23日)
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- 山の日制定記念スタンプ作成(2016年8月11日)
参考サイト
- 明石海峡大橋:本四高速
- 明石海峡大橋ブリッジワールド
- 舞子公園
- 世界最長 悲願のつり橋に挑む 〜明石海峡大橋 40年の闘い〜:新プロジェクトX〜挑戦者たち〜
NHK (この項おわり)