戦艦三笠は世界三大記念艦

2020年11月13日 撮影
戦艦三笠
戦艦三笠
世界三大記念艦「三笠」(神奈川県横須賀市稲岡町82-19)は、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊旗艦を務めた戦艦三笠を記念館として公開しているもので、所管は防衛省。イギリス海軍のヴィクトリー、アメリカ海軍のコンスティチューションと並び、世界三大記念艦と呼ばれている。
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戦艦三笠
戦艦三笠
日清戦争に勝利した我が国は、下関条約により清から遼東半島を割譲された。しかし、極東地域に強大な軍事力を展開している露独仏三国の強い干渉を受け、遼東半島を清に返還せざるを得なかった。
欧米列強から領土を守るために軍事力強化が急務であると考えた日本政府は、戦艦6隻、巡洋艦6隻を中核とする「六六艦隊整備計画」を進めることになった。

建造された戦艦6隻の最後が敷島型4番艦「三笠」で、イギリスで製造され、1902年(明治35年)3月、日本に引き渡された。奈良県にある三笠山(春日山)にちなんで命名された。
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戦艦三笠
戦艦三笠
全長122メートル、幅23メートル。機関は、石炭を燃やして蒸気を作って推進機関を駆動する方式で、15,000馬力。速力18ノット(時速33km)。乗員860名。主砲30センチ砲4門などの圧倒的な火力に加え、装甲板にクルップ鋼を使用して当時の世界最高水準の防禦力を備えていた。
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行進曲軍艦の歌碑 - 戦艦三笠
行進曲軍艦の歌碑
船尾の方に行進曲軍艦――いわゆる「軍艦マーチ」の歌碑がある。1900年(明治33年)、鳥山啓が作詞した「軍艦」に、軍楽師だった瀬戸口藤吉が作曲したもの。海軍省の制定行進曲であり、海上自衛隊の儀礼曲でもある。また、ミャンマー国軍の公式軍歌としても採用されている。
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東郷平八郎 - 戦艦三笠
東郷平八郎
日露戦争が勃発すると、1905年(明治38年)5月、連合艦隊司令長官の東郷平八郎が乗り込み、連合艦隊旗艦となった。5月27日の日本海海戦で、連合艦隊は東郷ターンによりバルチック艦隊を撃破した。
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東郷平八郎 - 戦艦三笠
東郷平八郎
バルチック艦隊の戦艦8隻を含む27隻を沈没または降伏させ、逃げ延びたのは 3隻だけだった。
甲板にある記念撮影場所には、東城鉦太郎 (とうじょう しょうたろう) が描いた有名な「三笠艦橋の図」が背景として用意されている。
東郷平八郎 - 戦艦三笠
東郷平八郎
三笠は、1923年(大正12年)のワシントン軍縮条約によって廃艦が決まった。国民の声によって保存が決まり、1926年(大正15年)11月、横須賀で三笠保存記念式が行われた。式典には摂政宮(のちの昭和天皇)をはじめとする皇族や、1913年(大正2年)に元帥となっていた東郷平八郎の姿もあった。
主砲 - 戦艦三笠
主砲
マストに掲げられている信号旗は、アルファベットの Z を表しており、「Z旗」と呼ばれる。日本海海戦の時、三笠は Z旗をマストに掲げ、「皇国の興廃この一戦にあり各員一層、奮起努力せよ」との東郷司令長官の号令を全軍に伝えて奮戦した。

甲板にある30cm主砲は、艦首に2門、艦尾に2門装備されている。最大射程は12kmとなっている。
主砲を動かす砲塔は、厚さ35cmの防御鉄板に囲まれており、これを操作し発射するためには40名の人員が必要だった。
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主砲 - 戦艦三笠
主砲
1961年(昭和36年)、復元工事が完了した。
復元にあたり、アメリカ軍が撤去したほぼ全てが、完全な形で返還された。
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主砲 - 戦艦三笠
主砲
主砲の砲弾の重さは400kgもある。
現在、三笠保存会が防衛省から管理を受託しているが、海上自衛隊横須賀地方総監部の施設「旧三笠艦保存所」として登録されおり、検査や修理費は防衛費を充てている。
操舵室 - 戦艦三笠
操舵室
三笠の艦橋は、操舵室と海図室の2区画に分かれている。
操舵室には、羅針盤、操舵輪、速度計などがあり航行中の操舵、艦内指揮を行う。
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最上艦橋 - 戦艦三笠
最上艦橋
連合艦隊がロシアのバルチック艦隊と戦った時、東郷司令長官は敵の弾が飛来する中、危険をかえりみず周囲が見渡せる最上甲板で戦闘を指揮した。

このとき、東郷司令長官、加藤参謀長、伊地知 (いじち) 艦長、秋山作戦参謀が立っていた場所を表示している。

太平洋戦争終戦後、三笠の金属部分や甲板のチーク材が剥がされ盗まれたことに対し、東郷元帥を敬愛していたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥は激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて三笠を護った。
だが、主砲やマストなどが失われ、現在展示されているものはレプリカである。
島村速雄 - 戦艦三笠
島村速雄
艦内には、東郷司令長官を補佐した島村速雄少将(参謀)の写真がある。
帝国海軍きっての作戦家として広く知られた島村は、連合艦隊参謀長に就任すると、実務は若い秋山真之少佐に任せ、秋山が活躍できるよう、おおらかな性格の上司としてフォローに徹する。
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艦長公室 - 戦艦三笠
艦長公室
島村は、旅順港では勝ちを焦り追撃に出ようとする秋山を叱咤し、負傷者の救出を優先するよう命じた。
旅順港作戦の失敗を理由に、島村は参謀長の職を辞したが、後任の参謀長に加藤友三郎少将、駆逐艦隊指令に鈴木貫太郎中佐(終戦時の総理大臣)など正鵠を射た人事を行った。
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司令長官寝室 - 戦艦三笠
司令長官寝室
島村は自ら、第二艦隊第二船隊司令官に転出したが、転出後も東郷司令長官をサポートした。日本海海戦に先立ち、バルチック艦隊の通過ルートが読めず、広い海のどこで待ち伏せするか、加藤参謀長や秋山参謀たちが迷いに迷った際も、東郷長官に対馬で待つべしと進言し、その瞬間に東郷の腹は決まったという。
士官室 - 戦艦三笠
士官室
司令長官が、各司令官や艦長などを集めて会議や食事をする際に使った。
日本海海戦で敗れたバルチック艦隊の降伏文書の署名もここで行われた。
司令長官浴室 - 戦艦三笠
司令長官浴室
司令長官浴室には、イギリス式の風呂とトイレがある。
15cm副砲 - 戦艦三笠
15cm副砲
14門ある15cm副砲の1つ。これでも十分巨大である。
15cm副砲 - 戦艦三笠
15cm副砲
副砲の砲弾を込めるの様子。
15cm副砲 - 戦艦三笠
15cm副砲
20門ある8センチ輔助砲。
1.5kmの砲弾を10kmまで飛ばすことができ、接近する駆逐艦、水雷艇など小型の艦艇をけ散らすために使用された。発射速度は毎分15発。
人力操舵輪用舵輪 - 戦艦三笠
舵取り機械が故障したとき、艦尾の舵機室において人力で直接操舵するときに用いる舵輪。とても大きい。
 - 戦艦三笠
戦艦三笠には軍楽隊も乗り込んでおり、当時の楽器の数々が保存展示されている。
三笠公園
三笠公園
世界三大記念艦「三笠」がある三笠公園の入口。「水と光と音」をテーマとした公園で、音楽に合わせて舞う噴水や、ダイナミックな壁泉、高さ18メートルのモニュメントなどが多数点在し、芸術・歴史を肌で感じることができる。
D51形蒸気機関車 - 三笠公園
D51形蒸気機関車
公園内には D51形蒸気機関車(D51 101)が展示されている。
D51形蒸気機関車 - 三笠公園
D51形蒸気機関車
だが、よく見ると、実際に使われていた蒸気機関車ではなく、横浜市緊急用飲料貯水槽とのこと。災害時に三笠公園に避難してくる人たちへの飲料水とするもので、1万人に1日3リットルの水を約3日間配ることができるよう、水道水を循環させている。
日本丸モニュメント - 戦艦三笠
日本丸モニュメント
三笠公園には、1984年(昭和59年)9月に横須賀で誕生した帆船「日本丸」の3分の1スケールのモニュメントがある。
横須賀市役所
横須賀市役所
世界三大記念艦「三笠」がある横須賀市役所

交通アクセス

【鉄道】
  • 京浜急行「横須賀中央駅」から徒歩15分
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出発地の最寄駅:

目的地:世界三大記念艦「三笠」
戦艦三笠 関連

参考情報

参考サイト

近隣の情報

(この項おわり)
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