徳川ミュージアムには本物の印籠が展示

2017年3月11日 撮影
徳川ミュージアム
徳川ミュージアム
徳川ミュージアム(茨城県水戸市見川 1-1215-1)は、水戸徳川家に伝わっている貴重な史料を公開するために 1967 年(昭和 42 年)に設立された公益財団法人で、歴代藩主・夫人たちの遺品約 3 万点、『大日本史』編纂のために集められた約 3 万点の資料を収蔵する。
徳川ミュージアムの大きな写真大きな写真
(1980×1320 ピクセル, 1381 Kbyte)
徳川ミュージアム
徳川ミュージアム
ミュージアムは 1977 年(昭和 52 年)、14 代当主・徳川圀斉 (くになり) によって開館した。開館当時は彰考館 (しょうこうかん) 徳川博物館という名前だったが、2011 年(平成 23 年)、財団法人・水府明徳会が公益財団法人・徳川ミュージアムに改組となるにともない、名称を改めた。
徳川光 - 徳川ミュージアム
徳川光圀
庭のベンチには、水戸黄門こと徳川光圀 (みつくに) が座している。

徳川光圀は、水戸藩の第2 代藩主で、徳川家康の孫に当たる。
時代劇「水戸黄門」では、全国を旅して世直ししたとしているが、ミュージアムの展示にもある通り、実際には、日光、鎌倉、金沢八景、房総しか訪れていない。
燭台切光忠 - 徳川ミュージアム
燭台切光忠
燭台切光忠 (しょくだいきり みつただ) は、光忠作(鎌倉時代)と伝えられ、織田信長から豊臣秀吉、伊達政宗の手を経て、水戸徳川家に贈られた日本刀である。
燭台切光忠 - 徳川ミュージアムの大きな写真大きな写真
(1920×949 ピクセル, 666 Kbyte)
燭台切光忠 - 徳川ミュージアム
燭台切光忠
伊達政宗の家臣で、懲戒されたものの行状が良くならないことから、銅の燭台の陰に隠れているのを燭台ごと切り落としたことから、この名がついたとされている。

関東大震災で焼失されたとされていたが、2015 年(平成 27 年)4 月、徳川ミュージアムが現存していることを発表。公開されることになった。刀身はは焼けて真っ黒になったままである。

この日は、刀剣乱舞・燭台切光忠のパネルと記念撮影している腐女子が目立った。
ひな人 - 徳川ミュージアム
ひな人形
季節柄、ひな人形が数多く展示されていた。
古来、左は右より格が高いとされていたことから、お内裏様の位置は左側(向かって右側)に置かれてきた。
ひな人 - 徳川ミュージアム
ひな人形
大正天皇は、右側を上位とする西洋の流れを汲み、即位の礼で右側に立ったことから、関東地方のお内裏様は向かって左に配置されるようになった。

大きな五段飾りは、いまの住宅で置く場所に困りそうだ。
白羅紗地葵紋付陣羽織 - 徳川ミュージアム
白羅紗地葵紋付陣羽織
白羅紗地葵紋付陣羽織 (しろらしゃじあおいもんつきじんばおり) は、徳川頼房が使っていたもので、輸入品の羅紗地にひだをつけ、大胆な意匠と南蛮趣味が特徴となっている。

三つ葉葵の御紋は、水戸徳川家の表紋で、儀礼的あるいは正式な用向きに用いる品物にのみ付されるものであった。
徳川ミュージアム
印籠
徳川光圀が使っていた本物の印籠――水戸徳川家の三つ葉葵の御紋を金蒔絵で裏表両面に施している。
これまでの研究によると、左右にある紐穴に紐を通した形式がみられないことが明らかになっており、この印籠を光圀公が携帯したことはなかったと言われている、

テレビドラマで使われたものよりシンプルで小ぶりで、全体が 5 段に分かれる作りとなっている。
徳川ミュージアム
大日本史
大日本史は、1645 年(寛永 22 年)、徳川光圀によって編纂の志が立てられ、1906 年(明治 39 年)に完成するまで 261 年を要した。
徳川ミュージアム
大日本史
漢文体で書かれており、全 397 巻 226 冊(目録5 巻)。1 年に 1 冊出るか出ないかの超スローペースの連載である。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。

横置きにされ、この木箱に収納、展示されていた。

交通アクセス

【鉄道+バス】
  • JR 水戸駅から茨城交通バス「見川 2 丁目」下車、徒歩 5 分
【自動車】
  • 常磐自動車道「水戸 I.C.」から約 20 分。無料駐車場あり。
行き方ナビ
出発地の最寄駅:

目的地:徳川ミュージアム徳川ミュージアム

参考サイト

近隣の情報

この付近でネットができる宿

(この項おわり)
header