景福宮は、李氏朝鮮時代の王宮である。韓国を代表する古宮のひとつで、日本語無料ガイドや、無人デジタルガイド機器のレンタルもできるので、韓国語がわからなくても観光できる。また、韓国の伝統衣装を来ていると入場無料になる。
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1968年に鉄筋コンクリート製のものに再建され、2010年に現在の場所に再々建設された。この際、扁額をハングルから漢字に変えた。
夜間はライトアップされる。
光化門を入ると広い庭が広がり、その正面にあるのが中門の興礼門である。
当初は弘礼門と名付けられたが、高宗の御代に興礼門として再建した。三門形式になっており、左右には小さなくぐり戸がある。
1916年、朝鮮総督府の建設により撤去されたが、2001年に復元された。
1916年、朝鮮総督府の建設により撤去されたが、2001年に復元された。
勤政殿は景福宮の正殿で、国王が臣下の朝礼を受け、公式な国家儀式を行ったり、宴会が催され、また外国の使臣との接見が行われた。
宮殿は2階建てで、1階と2階は吹き抜けになっており、天井まで見渡すことができる。天井中央の竜の姿や丹青(王宮などの木造建築の壁、柱、天井などにさまざまな文様を鮮やかな色彩で描くこと)など華麗さと雄壮さを兼ね備えた優れた建築物である。中央に玉座がある。
思政殿は、勤政殿の裏にあり、国王が政務を執り行ったり、臣下たちと議論をかわす場所であった。
康寧殿は、国王の寝室として使われていた。1395年、体操の時代に創建され、国王が健康で安らかであれば人民も安らかでいられるという意味から康寧殿という名前がつけられた。
中央に国王の寝室があり、周囲の8つの部屋には女官たちが寝泊まりしていた。
1994年に復元された。
1994年に復元された。
康寧殿の東側にある延生殿は、西側の慶成殿と並び、一回り小さな寝殿となっている。
集玉斎は、1891年、高宗が移築したもので、書斎や外交使臣接見所として使っていた。煙瓦を積み、当時としては珍しい中国清風の建物で、内部は2階建てになっている。左側の八隅亭には、鮮やかな清風の金飾りで装飾されている。
3年後に創建当時の規模に復元し、高宗が昌徳宮から王宮を戻した。しかし、1895年、閔妃が殺害されるという事件が起こり、高宗がロシア公館に避難したことで景福宮は王宮としての役目を終えた。
1910年、朝鮮総督府の開設に伴い、景福宮内にあった多くの殿閣は取り壊された。
1991年から本格的な復元事業がはじまり、工事は2025年までかかるという。
1991年から本格的な復元事業がはじまり、工事は2025年までかかるという。
光化門から市庁方面へと続く世宗路は2009年8月に完成し、光化門広場が完成した。ここには、文禄の役で活躍した李瞬臣将軍の巨大な銅像が建っている。
周辺地図
近隣の情報
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参考サイト
(この項おわり)