西暦1592年 - 文禄の役

朝鮮出兵(朝鮮侵略)

異国に (1592) 侵入、文禄の役

文禄の役
文禄の役
全国統一を果たした豊臣秀吉は、明の征服を掲げ、朝鮮に通路と服属を求めた。李氏朝鮮が拒むと、1592年(天正19年)、約15万8千人の軍勢を海峡の向こうへ送り込んだ。これが文禄の役 (ぶんろくのえき) であり、1597年(慶長元年)に始まる慶長の役 (けいちょうのえき) と合わせて文禄・慶長の役という。

日本軍は鉄砲を用いて釜山から漢城(現在のソウル)、平壌へ急進したが、朝鮮の義兵と水軍、明の援軍に阻まれ、長い補給路を維持できなくなった。1593年(天正20年)からの講和交渉は双方の要求を偽って伝えたため決裂し、再侵攻のさなかの1598年(慶長2年)に秀吉が死去すると、日本軍は撤退した。

目次

戦争の目的と三国の情勢

秀吉は天下統一の前から、中国大陸へ進出する「唐入り」の構想を語っていた。1591年(天正18年)、朝鮮に対して明へ進むための道を開くよう要求したが、朝鮮は明を中心とする国際秩序の中にあり、要求を受け入れなかった。秀吉の目的は明の征服と領土拡大であったが、なぜ実行に移したのかについては、権威を国内外へ示すため、大名の軍事力を外へ向けるため、新しい領地を得るためなど、複数の見方がある。「誇大妄想」だけで説明できる戦争ではない。

李氏朝鮮では約200年にわたって大規模な対外戦争がなく、軍制の乱れや武器・城郭の不備が指摘されていた。朝廷では東人・西人などの党派対立も続き、日本の侵攻規模を正しく見積もれなかった。一方、明は財政難に加え、1592年(天正19年)の寧夏 (ねいか) の乱や1590年代に始まる播州 (ばんしゅう) の乱などへの対応を迫られていた。それでも朝鮮を重要な朝貢国であり、自国の防衛に直結する地域とみて援軍を送った。

文禄の役 - 急進と補給の行き詰まり

朝鮮半島へ上陸する日本軍
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1592年4月(天正20年2月)、小西行長 (こにしゆきなが) を先鋒とする日本軍は釜山に上陸した。侵攻軍は約15万8千人で、鉄砲隊を集中して朝鮮軍を破り、5月に漢城、6月には平壌へ到達する。加藤清正 (かとうきよまさ) の軍は東北へ進み、朝鮮の二王子を捕らえた。日本軍が短期間で広い地域を占領できた背景には、戦国時代を経験した兵の実戦能力と、部隊を分けて進む速度があった。
しかし、占領地が北へ広がるほど、食糧・弾薬・兵員を運ぶ兵站は長くなった。朝鮮各地では民衆や地方官、僧侶らが義兵 (ぎへい) を組織して日本軍の小部隊や輸送路を攻撃した。戦争は正規軍同士の戦いにとどまらず、住民を巻き込み、殺害、略奪、捕虜の連行、文化財の破壊をもたらした。
日本軍の補給船を攻撃する朝鮮水軍
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海では李舜臣 (イ・スンシン) が率いる朝鮮水軍が、火砲を備えた板屋船や亀甲船 (きっこうせん) を用いて日本水軍を相次いで破った。日本軍の海上輸送を完全に断ったわけではないが、安全な補給を難しくし、沿岸を通って西へ進む作戦を妨げた。1593年(天正20年)には明の大軍が平壌を奪回し、日本軍は漢城を経て朝鮮半島南部まで後退した。

講和交渉の破綻と慶長の役

戦線が行き詰まると、小西行長と明の使者・沈惟敬らを中心に講和交渉が始まった。ところが、明には秀吉が服属して冊封を求めているように伝えられ、秀吉には明が降伏して要求を受け入れるように伝えられた。1596年(文禄4年)、明の使節が秀吉を「日本国王」に封じる勅書を届けると、秀吉は自らの要求が認められていないことを知り、交渉は決裂した。

1597年(慶長元年)、秀吉は約14万1千人を再び朝鮮へ送り、慶長の役が始まった。朝鮮・明軍も防備を整えていたため、日本軍は前回のように北上できず、南岸の倭城を拠点に戦った。1598年8月(慶長3年6月)に秀吉が死去すると、五大老は撤兵を決定する。11月の露梁海戦を最後に日本軍は帰国し、7年に及ぶ戦争は終わった。

豊臣政権と東アジアへの影響

日本は海外に恒久的な領地を得られず、多くの兵と物資を失った。戦費と動員は西国大名を中心に重い負担となり、秀吉の死後には政権をまとめる力が弱まった。朝鮮で戦った加藤清正らと、軍監や交渉・輸送を担った石田三成 (いしだみつなり) らの対立も、1600年(慶長4年)の関ヶ原の戦いへ向かう政治対立の一部となった。ただし、戦争だけを豊臣政権崩壊の「最大の原因」とし、武断派と文治派の争いがそのまま関ヶ原に直結したとみる説明は単純すぎる。後継体制の不安定さや徳川家康の勢力拡大なども合わせて考える必要がある。

朝鮮では都市と農地が荒廃し、多数の死者・捕虜と文化財の損失が生じた。日本との国交は断絶したが、対馬の宗氏を通じて交渉が進められ、1607年(慶長11年)に朝鮮使節が来日する。のちの朝鮮通信使 (ちょうせんつうしんし) へつながり、江戸時代の日朝関係は少しずつ再建された。

明も援軍の派遣で財政と軍事力を消耗した。文禄・慶長の役だけで明が滅びたわけではないが、内乱や政治・財政の混乱と重なって国力を弱め、女真族を統一したヌルハチと後金、のちの清が台頭する一因となった。明は1644年(寛永20年)、農民反乱軍に北京を占領されて滅亡する。

戦争の過程で、西国大名は多くの朝鮮人を捕虜として日本へ連行した。その中には陶工がおり、有田焼、薩摩焼、萩焼などの発展に大きく寄与したため、この戦争は「やきもの戦争」とも呼ばれる。朝鮮の金属活字や書籍も持ち込まれ、活字印刷や朱子学の普及に影響を与えた。ただし、これは平和な文化交流ではなく、侵略と強制連行の結果であったことを忘れてはならない。

参考書籍

表紙 文禄・慶長の役
著者
出版社 吉川弘文館
サイズ 全集・双書
発売日 2008年02月
価格 2,750円(税込)
ISBN 9784642063265

参考サイト

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