川越城本丸御殿は日本に2つしか残っていない本丸御殿の1つ

2023年6月10日 撮影
川越城本丸御殿
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川越城本丸御殿
川越城本丸御殿(埼玉県川越市郭町2−13−1)は、1848年(弘化4年)に時の藩主・松平斉典 (まつだいら なりつね) が造営したもので、国内に2箇所しかない本丸御殿の1つである(もう1つは高知城にある)。埼玉県の有形文化財。
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川越城本丸御殿
室町時代の1457年(康正3年)に、扇谷 (おうぎがやつ) 上杉持朝 (うえすぎもちとも) は、古河公方 (こがくぼう) 足利成氏 (あしかがしげうじ) に対抗するために、家臣の太田道真・道灌 (どうかん) 親子に命じて河越城 (かわごえじょう) を築城した。同じ年、太田道灌は江戸城を築城している。
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川越城本丸御殿
戦国時代の1537年(天文6年)に、北条氏綱は若き城主・上杉朝定 (うえすぎ ともさだ) を攻め、河越城を手に入れる。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐では、河越城を守っていた北条氏の宿老・大道寺政繁 (だいどうじ まさしげ) も降伏し、前田利家の軍勢が河越城に入城した。
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川越城本丸御殿
徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い、譜代の酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩となった。
江戸時代には川越城を中心に城下町が形成、小江戸と称され、武蔵国の商工農の中心、物資の集散地として栄え、物産品は新河岸川を通じて江戸に運ばれた。
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1846年(弘化2年)に二の丸御殿が焼失したため、1848年(弘化4年)に本丸御殿として再建する。この頃、越前松平家は17万石に達し、川越藩の歴史の中で最も石高が多くなった。
明治時代に入り、堀を埋め、城の取り壊しがはじまり、1873年(明治6年)の廃城令を受けて川越城内の不用・破損の建物等の売却が行われた。現在、川越城址の大部分は市街地となり、本丸御殿の多くも取り壊された。現在残っているのは玄関、大広間部分と家老詰所のみとなっている。
川越城本丸御殿
玄関を入って真正面には36畳の大広間があり、隣には使者の間がある。これらの部屋を囲むように幅2.7メートルの広い廊下がつながっている。広い和室、枯山水などの手入れの行き届いた庭、広い廊下の組み合わせが越前松平家17万石の風格をいまに残す。
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杵黒熊毛槍鞘 - 川越城本丸御殿
杵黒熊毛槍鞘
広間にある杵黒熊毛槍鞘 (きねくろくまげやりざや) は、天下三名槍の一つである「お手杵の槍 (おてぎねのやり) 」の鞘で、高さ152cm、直径46cm、重さは約26.3kgもある。雨の日には水を吸ってさらに重くなり、10貫目(約37.5kg)を超えたと言われている。

本槍は東京大空襲で焼失してしまったが、刃長だけでも約140cmあり、鋒(切先)から柄の下端にある石突までの全長は約333cmだったと伝えられている。総重量は22.5kgと、天下三名槍の中では最も長大で最も重い槍だった。
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川越城 関連

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(この項おわり)
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