ヒーローおっさん (1603) 徳川幕府を開く

征夷大将軍と源氏長者
武家の時代にあっても、朝廷から授けられる官位は重要であった。
当初官位が無かった豊臣秀吉は、大規模な御所造営を望んでいる正親町天皇に多額の寄進するなど、朝廷工作を進めていた。1585年(天正13年)7月、近衛家に養子縁組を認めさせ、秀吉は藤原の姓を得て、従一位・関白の地位を手に入れる。
官位で徳川家康の上に立った秀吉は、1590年(天正18年)7月13日、小田原の陣の論功行賞で家康を関東に領地替えを命じた。家康は、この仕打ちに不満を漏らすことも無く、源氏姓を名乗り、東国武士を傘下に収めていった。

その頃、家康は、源氏長者の位を得れば、関白を超えられると考えていた。過去に、源氏長者であった将軍・足利義満は、明の永楽帝から日本国王と認められた例があるからだ。

1596年(文禄4年)、家康は正二位・内大臣の位に就く。
1598年(慶長3年)8月18日、秀吉が没すると、五大老のうち最高の官位にあった家康は、事実上の筆頭家老になった。
関ヶ原の戦いで勝利した家康は朝廷工作を進め、1602年(慶長7年)正月、従一位になる。
1603年(慶長8年)2月12日、天皇から征夷大将軍への任官と、内大臣・従一位・源朝臣の宣旨を賜り、ついに源氏長者となった。家康が、武家と公家の頂点に立った瞬間である。

徳川将軍家は、代々、征夷大将軍と源氏長者が受け継がれることになる。
当初官位が無かった豊臣秀吉は、大規模な御所造営を望んでいる正親町天皇に多額の寄進するなど、朝廷工作を進めていた。1585年(天正13年)7月、近衛家に養子縁組を認めさせ、秀吉は藤原の姓を得て、従一位・関白の地位を手に入れる。
官位で徳川家康の上に立った秀吉は、1590年(天正18年)7月13日、小田原の陣の論功行賞で家康を関東に領地替えを命じた。家康は、この仕打ちに不満を漏らすことも無く、源氏姓を名乗り、東国武士を傘下に収めていった。

その頃、家康は、源氏長者の位を得れば、関白を超えられると考えていた。過去に、源氏長者であった将軍・足利義満は、明の永楽帝から日本国王と認められた例があるからだ。

1596年(文禄4年)、家康は正二位・内大臣の位に就く。
1598年(慶長3年)8月18日、秀吉が没すると、五大老のうち最高の官位にあった家康は、事実上の筆頭家老になった。
関ヶ原の戦いで勝利した家康は朝廷工作を進め、1602年(慶長7年)正月、従一位になる。
1603年(慶長8年)2月12日、天皇から征夷大将軍への任官と、内大臣・従一位・源朝臣の宣旨を賜り、ついに源氏長者となった。家康が、武家と公家の頂点に立った瞬間である。

徳川将軍家は、代々、征夷大将軍と源氏長者が受け継がれることになる。
日光東照宮

「日光東照宮の謎」(高藤晴俊/講談社/1996年(平成8年)03月)によれば、日光が江戸の守護神であることは間違いないが、それは北極星を神とする北辰信仰に基づくものだという。
日光は源頼朝の時代に開かれ、古くから修験道の霊山として、蝦夷との境界に位置する「関八州の鬼門」とされてきた。このことが鬼門の方位と混同されたのではないかという。
日光は源頼朝の時代に開かれ、古くから修験道の霊山として、蝦夷との境界に位置する「関八州の鬼門」とされてきた。このことが鬼門の方位と混同されたのではないかという。
徳川家康の足跡

徳川家康像 (岡崎城)
NHK大河ドラマ第62作『どうする家康』(2023年1月放映開始)は、室町時代後期から江戸時代を舞台に徳川家康を描く。

1543年(天文12年)12月26日、徳川家康は岡崎城主・松平広忠の嫡男として岡崎城において産まれる。幼名は竹千代といった。

1543年(天文12年)8月2日、竹千代は6歳で人質として今川氏の駿府へ護送されたが、途中、義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の武将で織田信長の父・織田信秀へ送られた。
1549年(天文18年)4月3日に父・広忠が死去すると、岡崎城は今川氏から派遣された城代に支配され、11月8日、今川氏と織田氏の間で行われた人質交換によって、竹千代は今川義元の人質となる。

1543年(天文12年)12月26日、徳川家康は岡崎城主・松平広忠の嫡男として岡崎城において産まれる。幼名は竹千代といった。

1543年(天文12年)8月2日、竹千代は6歳で人質として今川氏の駿府へ護送されたが、途中、義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の武将で織田信長の父・織田信秀へ送られた。
1549年(天文18年)4月3日に父・広忠が死去すると、岡崎城は今川氏から派遣された城代に支配され、11月8日、今川氏と織田氏の間で行われた人質交換によって、竹千代は今川義元の人質となる。

今川義元像 (臨済寺)

織田信長

武田信玄

足利義昭

長篠の戦い
1575年6月29日(天正3年5月21日)、長篠城の西方、設楽原で、織田信長・徳川家康連合軍3万8,000人と武田勝頼軍1万5,000人が衝突し、長篠の戦いが起きる。連合軍は3,000丁の鉄砲を用意し、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられた。

築山殿

富士山
しかし、家康の所領は織田と北条の間に挟まれており、これ以上の領土拡大は見込めなかった。家康は信長のことを「上様」と呼ぶようになり、天竜川に橋を架けたり、武田氏の支配地だった富士登山口の大宮を焼き洗い、信長を迎える御座所をつくるなどして、安土城へ凱旋帰国する信長を手厚く接待した。

本能寺
1582年(天正10年)5月、駿河拝領の礼のため、家康は安土城を訪れ、大接待を受けた。6月、本能寺の変が起きる。少人数の供と境にいた家康は身の危険を感じ、本多忠勝や服部半蔵の進言を受けて、伊賀越えを敢行し、辛うじて三河国に帰国した。

織田信雄

豊臣秀吉
小牧・長久手の戦いの頃、関東から東海一帯で地震や大雨が続き、家康は戦いを継続できる状況になかった。

1585年(天正13年)に秀吉は関白となり豊臣性を賜るが、家康の存在が脅威だった。1586年(天正14年)に秀吉は家康の懐柔を試み、実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出した。10月に家康は大阪城で秀吉に謁見し、豊臣氏に臣従することを誓う。

1585年(天正13年)に秀吉は関白となり豊臣性を賜るが、家康の存在が脅威だった。1586年(天正14年)に秀吉は家康の懐柔を試み、実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出した。10月に家康は大阪城で秀吉に謁見し、豊臣氏に臣従することを誓う。

駿府城天守閣の想像図
1568年(永禄11年)11月に家康は上洛し、正三位に叙され、多くの家臣も叙任された。12月に、居城を浜松城から駿府城へ移した。
1587年(天正15年)8月に再び上洛し、秀吉の推挙により従二位・権大納言に叙任され、駿河大納言と呼ばれるようになる。
1587年(天正15年)8月に再び上洛し、秀吉の推挙により従二位・権大納言に叙任され、駿河大納言と呼ばれるようになる。

北条氏直
家康は、縁戚関係にあった北条氏に秀吉へ恭順するよう促したが、氏直はこれに応じなかった。
1590年(天正18年)1月、家康は三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて、事実上の人質とすることで、あらためて秀吉への臣従の意思を明確にした。これを受け、秀吉は北条氏討伐に着手する。秀吉は30万の軍勢を率いて東征し、4月には小田原城を包囲。3ヶ月の籠城の後、北条氏が降伏し、秀吉による天下統一が実現する。
1590年(天正18年)1月、家康は三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて、事実上の人質とすることで、あらためて秀吉への臣従の意思を明確にした。これを受け、秀吉は北条氏討伐に着手する。秀吉は30万の軍勢を率いて東征し、4月には小田原城を包囲。3ヶ月の籠城の後、北条氏が降伏し、秀吉による天下統一が実現する。

江戸城天守台
いわゆる太閤検地を受けて、1590年(天正18年)7月、家康は5か国(駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国)を召し上げられ、北条氏の旧領である関八州(武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部)に移封された。石高は120万石から250万石への大幅加増だが、北条氏の税率が四公六民と極めて低かったことから、実収入は期待できなかった。
8月に家康は江戸へ入府し、江戸城を居城とした。四公六民は、享保の改革で引き上げられるまでつづいた。
8月に家康は江戸へ入府し、江戸城を居城とした。四公六民は、享保の改革で引き上げられるまでつづいた。

文禄の役

豊臣秀次

石田三成

ウィリアム・アダムス(三浦安針)
1600年(慶長5年)3月、豊後国にオランダのリーフデ号が漂着した。家康はリーフデ号を大阪へ移し、航海長のウィリアム・アダムス(三浦安針)や船員のヤン・ヨーステンは家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。とくにウィリアム・アダムスは航海技術だけでなく、数学と天文学も得意としており、家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作るなどして、家康の寵愛を受けた。

鳥居元忠

関ヶ原の戦い
家康は江戸城に1か月ほど留まり、近親や外様の諸将に200通近い書状を送った。家康は9月に江戸城を出陣し、9月15日に美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。正午頃に西軍の小早川秀秋の軍勢が東軍に寝返り、東軍の完勝に終わった。

二条城の唐門
家康は、三成をはじめ、西軍に与した諸大名のほとんどを処刑や流罪、改易し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配した。家康の領地は400万石となり、一方、豊臣家は5万石の一大名となった。
12月に家康の奏上により、空位だった関白に九条兼孝が任じられ、五摂家に関白職が戻った。1603年(慶長8年)2月、後陽成天皇が家康を征夷大将軍に任命した。また、秀吉の遺言を受けて、孫娘(秀忠の長女)の千姫と秀頼に嫁がせる。
12月に家康の奏上により、空位だった関白に九条兼孝が任じられ、五摂家に関白職が戻った。1603年(慶長8年)2月、後陽成天皇が家康を征夷大将軍に任命した。また、秀吉の遺言を受けて、孫娘(秀忠の長女)の千姫と秀頼に嫁がせる。

徳川秀忠
1605年(慶長10年)4月、家康は将軍職を辞し、秀忠が征夷大将軍に任命され、以後、将軍職は徳川氏が世襲していくことになる。1607年(慶長12年)に駿府城に移り、朝廷、寺社、西国大名に目配りをする大御所政治を開始する。外交面では、朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復する。

豊臣秀頼
1609年(慶長14年)にオランダ施設と会見し、平戸にオランダ東インド会社の商館開設を許可。1613年(慶長18年)には平戸にイギリス東インド会社の商館開設を許可。
1610年(慶長15年)に足尾銅山を開山。石見金山、佐渡金山とあわせて、江戸幕府の主要な財源となる。
1611年(慶長16年)3月、二条城で豊臣秀頼と会見する。
1610年(慶長15年)に足尾銅山を開山。石見金山、佐渡金山とあわせて、江戸幕府の主要な財源となる。
1611年(慶長16年)3月、二条城で豊臣秀頼と会見する。

大阪城
秀頼は家康と共同で、秀吉が建立したものの1596年(文禄4年)の慶長伏見地震で大破した方広寺大仏(京の大仏)の再建を進めた。幕府は、1614年(慶長19年)に完成した梵鐘の銘文に刻まれた「国家安康」は家康の名を分断して呪詛する言葉であり、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむものだとして糾弾した。豊臣氏は弁明を試みるが聞き入れてもらえず、1614年(慶長19年)11月15日に家康は20万の大軍で大阪城を包囲(大坂冬の陣)。真田丸の戦いでは敗戦を喫するものの戦局への影響はなく、豊臣氏は和睦の条件として大阪城の堀を埋めることになった。
その後、幕府は豊臣氏が浪人を集めて戦の準備を進めていると詰問し、1615年(慶長20年)に再び大阪城を攻める(大坂夏の陣。5月8日、秀吉と淀殿らは大阪城で自害し、豊臣宗家は滅亡した。
その後、幕府は豊臣氏が浪人を集めて戦の準備を進めていると詰問し、1615年(慶長20年)に再び大阪城を攻める(大坂夏の陣。5月8日、秀吉と淀殿らは大阪城で自害し、豊臣宗家は滅亡した。

銅宝塔(徳川家康墓) - 日光東照宮
家康の死因は、天ぷらの食中毒という説が一般的であるが、天ぷらを食べてから死去するまで約3ヶ月と時間が空いており、また、『徳川実紀』には家康が見る間に痩せていき、吐血や腹に触れるほどの大きさのしこりがあったことなどを記していることから、胃がんとする説が有力になっている。
この時代の世界
参考書籍
交通アクセス
【自動車】

- 東北自動車道「宇都宮I.C.」から日光宇都宮道路を経て「日光I.C.」で下り、約2キロ。

参考サイト
- 日光東照宮:ぱふぅ家のホームページ
(この項おわり)
1605年(慶長10年)、家康は将軍職を息子の秀忠に譲るが、大御所として政治の実権を握り続ける。