
西暦200年、官渡の戦いで、最大のライバルであった袁紹を破った曹操は、それから7年で華北を制圧した。中国全土の統一を目論む曹操は、数十万規模に膨れあがった軍勢をもって南下を続けた。
一方、荊州を拠点にして曹操に抵抗しようとした劉備だったが、統治者の劉琮らが早々に降伏してしまい、手勢は1万に減ってしまった。

曹操から会稽の太守を任じられていた孫権だったが、中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れていないことや、急遽編入した水軍は曹操に本心から付き従っているわけではないことを分析した周瑜は、孫権に開戦を勧めた。
この頃、魯粛は劉備に、孫権と同盟することを提案。劉備は諸葛亮を使者と派遣して孫権と同盟を結ぶ。

孫権と劉備の連合軍は数でこそ曹操軍の10分の1程度であったが、周瑜の部将である黄蓋は、孫権の船団が密集していることに注目し、火攻めの計で曹操の水軍を全滅させた。

その結果、いままで地盤を持たなかった劉備が荊州南部(四川)で独立した。孫権は江南を支配した。負けた曹操は華北で守りに入った。こうして天下は分かたれ、中国統一は、280年の司馬炎を待たねばならなかった。
一方、荊州を拠点にして曹操に抵抗しようとした劉備だったが、統治者の劉琮らが早々に降伏してしまい、手勢は1万に減ってしまった。

曹操から会稽の太守を任じられていた孫権だったが、中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れていないことや、急遽編入した水軍は曹操に本心から付き従っているわけではないことを分析した周瑜は、孫権に開戦を勧めた。
この頃、魯粛は劉備に、孫権と同盟することを提案。劉備は諸葛亮を使者と派遣して孫権と同盟を結ぶ。

孫権と劉備の連合軍は数でこそ曹操軍の10分の1程度であったが、周瑜の部将である黄蓋は、孫権の船団が密集していることに注目し、火攻めの計で曹操の水軍を全滅させた。

その結果、いままで地盤を持たなかった劉備が荊州南部(四川)で独立した。孫権は江南を支配した。負けた曹操は華北で守りに入った。こうして天下は分かたれ、中国統一は、280年の司馬炎を待たねばならなかった。
赤壁の戦いの場所
参考書籍
(この項おわり)
連合軍は火攻めにより曹操の水軍を全滅させることで、これを撃退。以後、曹操は華北を、孫権は江南を、劉備は四川を確保することになり、天下三部の形勢が確立した。