張角は病死し、主立った幹部が戦死するなどして、黄巾の乱そのものは184年のうちに収束した。しかし、後漢の政治腐敗は改まることはなく、黄巾賊の残党は反乱を繰り返した。
治安の悪化に伴い、知識人を含む多くの民が難を避けて荊州・揚州・益州など江南や四川の辺境地域に移住した。
その後、各地で軍閥的な勢力が出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。
治安の悪化に伴い、知識人を含む多くの民が難を避けて荊州・揚州・益州など江南や四川の辺境地域に移住した。
その後、各地で軍閥的な勢力が出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。
この時代の世界
(この項おわり)
後漢が衰退し、三国時代に移る一つの契機となった。