西暦603年 - 冠位十二階

聖徳太子による改革
聖徳太子
603年(推古天皇 (すいこてんのう) 11年)12月5日、聖徳太子 (しょうとくたいし) は優秀な人材を登用するため、冠位十二階 (かんいじゅうにかい) を定めた。
その背景には、天皇が官位を承認することで権力を中央集権化する目的があり、これが律令制度への橋渡しとなった。

604年(推古天皇12年)4月3日、聖徳太子は、豪族や役人たちの心構えを定めた十七条憲法を定める。
592年、蘇我馬子 (そがのうまこ) 崇峻天皇を暗殺し、推古天皇を即位させると、聖徳太子が摂政として政治の実権を握る形となる。

これより少し前の589年、隋による中国統一がなされる。
そこで600年(推古天皇8年)、聖徳太子は第1回遣隋使を派遣するが、隋の皇帝・文帝は日本が未成熟な国だとして国交を結ぶことはしなかった。
これを受け、聖徳太子は次々と改革の手を打っていくことになる。

607年(推古天皇15年)、聖徳太子は小野妹子 (おののいもこ) らに国書を持たせ、満を持して第2回遣隋使を派遣する。当時の隋の皇帝は2代目の煬帝 (ようだい) であった。
国書の冒頭に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と記されているのを見た煬帝は激怒したとされているが、朝鮮遠征を計画していたため、日本との平和的な交流を望み、遣隋使一行に親書と使者を与えた。
こうして608年(推古天皇16年)、隋の使者が来日する。

この時代の世界

525 550 575 600 625 650 675 603 冠位十二階 604 十七条憲法 574 622 聖徳大使 554 628 推古天皇 607 第2回遣隋使 592 崇峻天皇、暗殺 550 592 崇峻天皇 547 587 用明天皇 551 626 蘇我馬子 586 645 蘇我蝦夷 597 654 孝徳天皇 594 661 皇極天皇→斉明天皇 541 604 陽堅→文帝 589 隋による中国統一 569 618 煬帝 566 635 高祖 574 648 孔穎達 618 唐の建国 598 649 太宗 581 649 ソンツェン・ガンボ 590 647 ハルシャ・ヴァルダナ 600 642 プラケーシン2世 570 632 ムハンマド 622 ヒジュラ(聖遷) 560 628 ホスロー2世 573 634 アブー・バクル 637 カーディシーヤの戦い 642 ニハーヴァンドの戦い Tooltip

参考書籍

表紙 聖徳太子の歴史を読む
著者 上田正昭/千田稔(歴史地理学)
出版社 文英堂
サイズ 単行本
発売日 2008年02月
価格 2,200円(税込)
ISBN 9784578100898
聖徳太子1400年、「和」のこころ厩戸皇子のすべてに答える。
 
表紙 日出処の天子 全7巻セット
著者 山岸凉子
出版社 白泉社
サイズ
発売日 2010年07月
価格 4,327円(税込)
ISBN 9784592889823
 
(この項おわり)
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