
聖徳太子二王子像 (狩野養信)
592年、蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺し、推古天皇を即位させると、聖徳太子が摂政として政治の実権を握る形となる。

これより少し前の589年、隋による中国統一がなされる。
そこで600年(推古天皇8年)、聖徳太子は第1回遣隋使を派遣するが、隋の皇帝・文帝は日本が未成熟な国だとして国交を結ぶことはしなかった。
これを受け、聖徳太子は次々と改革の手を打っていくことになる。

607年(推古天皇15年)、聖徳太子は小野妹子らに国書を持たせ、満を持して第2回遣隋使を派遣する。当時の隋の皇帝は2代目の煬帝であった。
国書の冒頭に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と記されているのを見た煬帝は激怒したとされているが、朝鮮遠征を計画していたため、日本との平和的な交流を望み、遣隋使一行に親書と使者を与えた。
こうして608年(推古天皇16年)、隋の使者が来日する。

これより少し前の589年、隋による中国統一がなされる。
そこで600年(推古天皇8年)、聖徳太子は第1回遣隋使を派遣するが、隋の皇帝・文帝は日本が未成熟な国だとして国交を結ぶことはしなかった。
これを受け、聖徳太子は次々と改革の手を打っていくことになる。

607年(推古天皇15年)、聖徳太子は小野妹子らに国書を持たせ、満を持して第2回遣隋使を派遣する。当時の隋の皇帝は2代目の煬帝であった。
国書の冒頭に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と記されているのを見た煬帝は激怒したとされているが、朝鮮遠征を計画していたため、日本との平和的な交流を望み、遣隋使一行に親書と使者を与えた。
こうして608年(推古天皇16年)、隋の使者が来日する。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)
その背景には、天皇が官位を承認することで権力を中央集権化する目的があり、これが律令制度への橋渡しとなった。
604年(推古天皇12年)4月3日、聖徳太子は、豪族や役人たちの心構えを定めた十七条憲法を定める。